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2012年4月13日 (金)

「沢田教一はニコンを愛用した」は嘘

 親父がニコンFEを購入した時に貰えたと思われる冊子ニコンの世界は小学生の頃の△11の愛読書であった。

 この本がニコンに対する憧れとか欲望を増殖させたことは間違いない。しかし、ニコンが世界最高のカメラだと思えるようになったかと言うとそうではなかった。
 一つは何人もの有名カメラマンが連ねた寄稿であった。ニコンF以後使い始めたであろう若手のカメラマンにはそんな空気はないのだが、ニコンS時代を知る年配のカメラマンの書いているのを読むと「本当はライカやコンタックスが欲しかったけど、、、ニコンは安かった割に使えたねぇ」としか読めなかった。実際そう書いていたのだろうし。

 もう一つが今回話題にする沢田教一の件である。このような記述がある。

》1971年度(ママ)のピューリッツァー賞も、ニコンによる作品
》に授与された。ベトナム戦線において取材にあたったUPI通信の
》沢田カメラマンの『安全への逃避』という力作である」
(『ニコンの世界』P18)

001_2  実際には沢田教一が報道写真部門でピューリッツァー賞を受賞したのは1966年であり、また受賞したのは『安全への逃避』単体でなく1965年に撮影された28点のベトナム写真集である。が、それらは横に置くとして。

 フリージャーナリストの青木冨貴子はこの日本光学工業の主張と真っ向から矛盾する話を書いている。

》(△11注:数少ない日本人の友人である上野義良が日本製カメラ
》のセールスでサイゴンに来たが)いくら勧めても沢田は決して日本
》のカメラを使おうとしなかった。
》「日本のカメラは写りが悪い」
》「日本のカメラを使うと壊れちゃうんだよ」
》といつもケチョンケチョンにけなすのだった。
》沢田にとって良いカメラとは、まず第一に壊れないカメラのことだっ
》た。戦場での写真には、ライカとともにニコンを一台下げているも
》のがある。ジャングルで取材中に、このニコンが壊れて使えなくなっ
》たことがあった。
》「こいつのおかげで、今のショットを撮り逃がしたんだ」
》ニコンを地面に投げつけながら、珍しく沢田は声を荒げて怒った。
》いらい、沢田のライカ信奉は、ますます確たるものになった。
(『ライカでグッドバイ』P155)

》世界報道写真展大賞を初めて受賞した時、ハーグの取材陣は競って
》「どんなカメラを使っているのか」と質問した。当然、彼らは日本
》人カメラマンの口から、ニコン、キヤノンといった答えが返ってく
》ると期待した。が、沢田は決まって「ライカ」と言うのだった。喜
》んだライツ社は、プロット・タイプのカメラやレンズの現場テスト
》を頼むようになっていった。
(『ライカでグッドバイ』P157)

 日本製一眼レフカメラが報道カメラの主流になったのは一般に東京オリンピックが行なわれた1964年頃と言われているから、沢田教一が最初にベトナムに渡った1965年2月当時すでに報道カメラの主流は日本製一眼レフカメラになっていた。まして日本人。当然使っていると想定されて然るべき日本製カメラを沢田教一が使用したがらなかったことは、当時有名な事実だったのだ。

 しかし全く使用しなかったら「ニコンを地面に投げつけ」ることもできないわけで、全く使用しなかったわけではないことも同時に分かる。

 このニコンについて三宝カメラは

》青木富貴子著「ライカでグッドバイ」には、肝心のシャッターチャ
》ンスでニコンFが故障し、怒った沢田教一カメラマンがニコンを投
》げ捨てる記述が認められる。
昭和のアナログ ニコンページ(別サイト)

 と勝手に文章を変造しているが、「ライカでグッドバイ」原文には「ニコン」としか書かれていない。

 沢田教一が写っている写真を色々見ていると、ニコンFブラックを提げた写真と、ニコノスを提げた写真がある。

Sawadawithnikonf_2 例えば左の写真ではニコンFブラックにオートニッコール135/3.5だろうか、かなり長い望遠レンズをつけているようだ。この領域になるとM型ライカで使うのはかなり大変で、途中から「写りが悪い」「壊れちゃう」などと言っていられなくなったのかも知れない。
 これに関して「世界報道写真展グランプリ受賞後は望遠系はニコンFに切り替えて105ミリ、200ミリなどを付けた」(『サワダ―遺された30,000枚のネガから 青森・ベトナム・カンボジア』P274)という記述がある。『安全への逃避』で世界報道写真展グランプリを受賞したのは1965年であるが、ニコンFを使い始めたのはその直後とは限らないため、使い始めた時期は特定できない。

 この写真を含めどの写真でも間違いなくライカ複数台に加えて1台のニコンFブラックなりニコノスを持っているんで、補助的に使っただけであることは間違いないように思われる。

 このニコンFブラックは高校時代の同級生で写真部長だった藤巻健二から渡され所有していた個体である可能性がある。

》「ライカじゃ望遠レンズを付けられないし、ボディもシルバーでピ
》カピカ光るから戦場じゃ目立って危ない。“こっちのほうが安全だ
》ぞ”って、発売されたばかりのブラックボディのニコンFを持たせ
》て、換わりにライカM3を預かったんです」。
》そう語るのは、現在も青森市内で写真店フォト・フジマキを営むカ
》メラマンの藤巻健二さんだ。(中略)
》 「同級生の間では通称“沢教(さわきょう)”って呼ばれていたん
》ですが、ある時ふらっとやって来て、訊けば“ベトナムに行く”って
言うから驚きました。
一台のライカが駆け抜けてきた記憶。|とうほく唯物論|東北ライブラリー|BBっといー東北(別サイト)

 この「藤巻健二が沢田教一にニコンFブラックを渡し、ライカM3クロームを預かった」話はいつなのだろう。上の部分だけ素直に読むと、沢田教一が最初にベトナムに渡った1965年2月の直前とも思えるが、よく読んで行くと、ピュリッツァー賞を受賞した1966年5月よりも後の話であることが下の部分で分かる。

》ずっと沢教を知っていても当然、彼が戦場に行ってピュリッツァー
賞を受賞するなんて思いもしませんでした。(中略)高校卒業以来、
沢教は一度も同窓会に参加しなかったから、本当にどこか遠い世界
》で、ある期間のうちに起きた出来事という印象がありました
一台のライカが駆け抜けてきた記憶。|とうほく唯物論|東北ライブラリー|BBっといー東北(別サイト)

 沢田教一が最初にベトナムに渡る1965年2月の直前に(同窓会でなく)藤巻健二と個人的に会ってカメラを受け渡した可能性はないのだろうか。
 次の記述から,その可能性もないことが分かる。

》一九六九年十二月十五日、香港からサタ夫人を伴って羽田空港へ降
》りたった沢田は、十八日の夜行列車で青森へ向かった。三年ぶりに
》故郷の地を踏んだカメラマンは、卒業以来初めて十数年ぶりに中学
》校時代の教師、高校時代の同級生に会っている
(『ライカでグッドバイ』P214)

》「沢教が帰ってきたぞ」と集まった青森高校の同級生五人は暮れも
》押し迫る頃、このホテルのバーで卒業以来初めて沢田に会った。こ
》の席でも、沢田は再び戦場へ行くと口にしている。
》「やめろ、やめろ」
》同級生たちは口々に反対した。特に東奥日報写真部を経て、市内に
》カメラ・ショップを出す藤巻健二は「戦争写真はわりにあわないじゃ
》ないか」と強く止めようとした。
(『ライカでグッドバイ』P216)

 すなわち沢田教一は高校卒業後1969年12月まで、藤巻健二を含めて高校同級生の誰にも会っておらず、また沢田教一が高校同級生に「ベトナムに行く」と語ったのは二度目となる1970年1月のベトナム渡りについてということになる。
 そして同時に「藤巻健二が沢田教一にニコンFブラックを渡し、ライカM3クロームを預かった」のは1969年12月らしいと分かる。すなわち1965年に『安全への逃避』を撮影した時には、藤巻健二から渡されたニコンFブラックはまだ持っていなかった。その前に自前で購入したのか。時間軸から言ってあり得ない話ではないが、何も根拠がないし、藤巻健二の発言は「沢田教一はそれまでライカ一辺倒であったが、自分がニコンFを渡してそれでニコンFも使うようになった」というニュアンスがあるように思える。

002_3 1966年01/29に撮影されその年の世界報道写真展グランプリを受賞した『泥まみれの死』についても、ウェブ上に「ニコンFで撮られた」とする説がある。

 しかし1969年12月に藤巻健二から渡されたニコンFブラックはまだ手元にないはずだ。

 逆に、ライカで撮影したとする根拠はある。沢田教一本人が『泥まみれの死』撮影時の状況をUPIの同僚であった赤塚俊介に対して以下のように語っているというのである。

》「僕はあの時90ミリのレンズで戦車を撮ったんだ。APは50ミ
》リで撮っていた。僕の方がAPよりちょっと長かったから良かった
》んだよ」
(『ライカでグッドバイ』P107)

 この話の中で出て来る「戦車」とは実際には「M113装甲兵員輸送車」であるようだが、本筋には影響ない。
 「AP」とはライバル関係にあったAP通信のエディ・アダムスのことである。

 この後、理由に関して実際にはエディ・アダムスがフィルムを紛失し沢田教一が撮影したフィルムしか存在しなかったので、使用したレンズによる差ではなかった、という記述が続くが、沢田本人が「90ミリを使ってこの写真を撮った」という自覚を持っているという趣旨に影響はない。

 90ミリなぞFマウントの純正レンズにはない。ニッコール全部に拡げたとしても大判用の超広角レンズSWニッコール90/4.5、SWニッコール90/4.5S、SWニッコール90/8、SWニッコール90/8Sがあるだけ、しかもこれらは全て沢田教一の死後発売されたものだ。
 90ミリと書いてあるだけでニッコールとは書いてないので、ボディーはニコンFながらレンズが社外品だった可能性はないのか。しかしこの頃社外品では最有力だった三協光機のコムラーは90ミリでなく85ミリだった。タムロンのSP90/2.5マクロ52Bも、ビビターシリーズ1、後のトキナーAT−X90/2.5マクロもまだ存在しない。そもそも今と違って社外品のレンズなぞそれしか買えない貧乏人以外は馬鹿にして使わなかった時代であり、ニコンすら「日本のカメラを使うと壊れちゃうんだよ」と言って忌避しライカを使った人間が日本製社外品レンズを使うとは思えない。ドイツのレンズメーカーが未だやっと地位を築き始めたばかりのニコンFのために社外品レンズを製造した可能性も低い。
 沢田教一が使っていた機材のリストにはズミクロン90/2が入っていた。
 『ライカでグッドバイ』の記述を信じる限り、「ライカを使っていた」と考える方が格段に素直なのである。

 青木冨貴子が『ライカでグッドバイ』に書いたことがデタラメなのだろうか。
 個人的にはそうは思わない。無論全部が全部正しいとも思わないが、「沢田教一が代表作にニコンを使っていた」旨主張する各種の記述より格段に具体的で詳細だからだ。

 そもそも『安全への逃避』がニコンで撮影されたと日本光学工業が主張しているその根拠は何なのだろうか。△11が調べた限りでは何も出てこない。根拠なしに主張したのであれば「でっち上げ」である。
 『ニコンの世界』には1976年発行の初版からこの記述がある。ニコンFの圧倒的な成功を背景に1971年ニコンF2を発売して5年、まさに「世界のニコン」「報道のニコン」の最盛期である。にも拘らず、未だ自社製カメラに心底からの自信と誇りを持てていなかったのであろうか。
 それにしてもラリー・バローズなり石川文洋なり一ノ瀬泰造なり本当に「ニコンを愛用」していた報道カメラマンなぞ当時いくらでもいたはずで、わざわざ沢田教一を引っ張って来たのは本当に理解に苦しむ。

 日本光学工業はその後も同種の話を書いている。

》例えばベトナム戦争ひとつとってみても,ピューリッツァー賞は
》1968年(昭和43),UPI通信の酒井カメラマン,69年
》(昭和44)がAP通信のエドワード・アダムス,さらに70年
》度ロバート・キャパ賞がUPI沢田教一に与えられたが,彼らの
》愛機はいずれもニコンであった。
(『新・ニコンの世界』P37)

 どうでも良いことだが、、、「UPI通信の酒井カメラマン」は酒井淑夫で良いとして、「AP通信のエドワード・アダムス」って誰(^_^;?
 エディ・アダムスのことなんだろうが、エディはエドワードの愛称として使われるものの正式な人名でも使われるし、「愛称だと思い込み正式名称に直そうとした」としても、エドウィンとかエドガーとかエドモンドかも知れないんで、何か根拠がなければ「エディはエドワードの愛称」とは確定できないはずだ。
 ベトナム戦争当時AP通信で働いていたあの有名カメラマンについて他の場所で「エドワード・アダムス」という表記は見たことがない。どこで誰が書いたものを見ても「エディ・アダムス」Eddie Adamsである。

 特別ライカを愛用し日本製カメラを嫌悪していたことが明らかな者について、根拠もなく「ニコンの愛用者だった」というのは問題があると思う。
 まして調べたら調べただけ出て来るあらゆる証拠が「ニコンでなくライカで撮影した」ことを示しており、この現状でその代表作についてどれか1枚でも「ニコンで撮影した」と主張するためには、特別強固な証拠を示す必要があるはずだ。
 もう死んでしまって、訂正する手段を持たない沢田教一に代わって△11はニコンに反論したい。

 沢田教一の愛機はニコンだったか?
 否、沢田教一の愛機はライカだった。

(追記)沢田サタによると、沢田教一自身が書いた『安全への逃避』の撮影データメモにはこうあったという。「ライカMー3、135ミリレンズ、トライX、1/250秒、F11」(『サワダ―遺された30,000枚のネガから 青森・ベトナム・カンボジア』P286)

関連記事:沢田教一が「地面に投げつけ」た「ニコン」は何であったか

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コメント

私もそう思います。ちなみに藤巻氏が預かったというM3、青森県立郷土館に展示してあったような記憶があります。

投稿: はんちゃ | 2012年7月 6日 (金) 20時50分

 はじめまして。
 大変興味深く拝読させていただきました。藤巻健二さんから、「戦場ではライカのボディーは光って敵の標的になるので危ないから、手元に発売されて間もないニコンFのブラックボディーがあったので、沢田教一が持っていたライカと交換した」と伺ったことがあります。その肝心のブラックの発売時期がわかりません。
 なお、下記に関連記事があります。
 http://kyodokan.exblog.jp/16324233/

投稿: 青森太郎 | 2012年11月 2日 (金) 09時53分

 はんちゃさん青森太郎さんこんにちは。コメントありがとうございます。

》肝心のブラックの発売時期がわかりません。

 結論から言うと「ニコンFブラックの発売は○年○月」という情報について△11は知りませんし、知っていても沢田教一のライカM3との交換時期を確定する役には立たないと思います。

 その筋のコレクターに聞けば「ニコンFブラックの発売は○年○月」という情報はあるのかも知れませんが、しかしその前に一般ルートでなく出ていると思いますし、発売されても一般の人はすぐ入手できるようにはなりません。この時代は公式な発売時期と別に、ユーザーの地位と努力と運次第でかなり入手可能時期は変わります。

 当時日本光学工業はユーザー手持ちのニコンFクロームの外装を有償でブラックに交換するサービスもしていました。この時シリアルナンバーも元と同じ番号を打つので、市場にある現品から調べるのも困難だと思います。

 現行当時を知っている人の話を聞いていると、色々な箇所で今とかなり感覚が違うのが分かります。調べる時にはその辺も自戒していないと危険ですよね。

投稿: プリズム11 | 2012年11月 2日 (金) 13時41分

エディアダムスに関してはこちらでもEdwardになっておりますので、どちらでもよろしいのではないでしょうか。
http://www.pulitzer.org/bycat/Spot-News-Photography

投稿: y | 2014年7月28日 (月) 20時33分

 yさんこんにちは。

 情報ありがとうございます。

https://en.wikipedia.org/wiki/Eddie_Adams_%28photographer%29

 を見てもbornの欄に「Edward Thomas Adams」とありますね。

投稿: プリズム11 | 2014年7月28日 (月) 22時52分

また嘘にだまされ嘘を広める愚か者が・・・
カルトライカ教の盲目信者はほんと気持ち悪い

投稿: @@@ | 2018年3月11日 (日) 13時05分

@@@さんこんにちは。

人がある程度の根拠を持って書いた記事に対して「嘘」と書くならそれなりの根拠を持って来ないと「自分は嘘に騙され嘘を広める愚か者である」って大声で叫ぶだけになってしまいますよ。

しっかし△11に対して「カルトライカ教の盲目信者」とはねぇ。日本語読めないのに日本語での議論の場に出ちゃいけないなぁ。

ところでこんなコメントがつくってことは、ニコンよりライカの方がブランド価値がある時代になったわけだよね。時代も変わるものだ。

投稿: プリズム11 | 2018年3月16日 (金) 05時34分

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