どうも第二次世界大戦における日本敗戦について「航空機の時代になっていたのにそれを軽視し、旧態依然の戦艦を作り続けたのが間違い」などと簡単に切って捨てる人が多い。
日本海軍は、航空を軽視しなかった。いやそれどころか、ここまで重視した軍隊は他になかった。それを隻数と排水量で見て行こうと思う。排水量は単なる大きさであるが、各国が技術の粋を競う以上ほぼそのまま軍艦の能力を表すと考えられている。
隻数では例えば「水上機母艦や護衛空母は空母として数えるか」「旧式艦をいつまで戦艦と数えるか」という問題があり、排水量では資料により種類が「基準排水量」「公試排水量」「満載排水量」、単位も「ロングトン」「ショートトン」「メートルトン」など色々な種類のが混在しており、明らかに誤認されている数値も散見される。また「改修で変化した等で複数数値がある場合、開戦時の数値はどれなのか」等の問題があり単純ではないが、目的からすればそこまで厳密に考える必要はないかも知れない。基本的には一番表示されていることの多い基準排水量、メートルトンで算定した。
日本海軍が開戦時に保有していた空母は以下の通り。
鳳翔(1919年起工、1921年進水、1922年就役、基準排水量7470t)
赤城(1920年起工、1925年進水、1927年竣工、基準排水量36500t)
加賀(1920年起工、1921年進水、1928年竣工、基準排水量38200t)
龍驤(1929年起工、1931年進水、1933年竣工・就役、基準排水量10600t)
蒼龍(1934年起工、1935年進水、1937年竣工、基準排水量15900t)
飛龍(1936年起工、1937年進水、1939年竣工、基準排水量17300t)
瑞鳳(1935年起工、1936年進水、1940年竣工、基準排水量11200t)
翔鶴(1937年起工、1939年進水、1941年竣工、基準排水量25675t)
瑞鶴(1938年起工、1939年進水、1941年竣工、基準排水量25675t)
以上9隻、基準排水量の合計は約22万tである。
余談になるが鳳翔は「世界で最初に完成した、最初から空母として起工された空母」であり、ここでも日本海軍が空母黎明期に先駆者の一つであったことが伺えるのである。回りくどい書き方になっているのは「世界最初の空母」は軽巡洋艦からの改造空母であるイギリスのフューリアスであり、「最初から空母として起工された空母」としてもイギリスのハーミーズの方が早かったからである。
これに対しアメリカ軍が開戦時に保有していた空母は以下の通り。
ラングレー(1911年起工、1920年進水、1922年就役、基準排水量12900t)
レキシントン(1921年起工、1925年進水、1927年就役、基準排水量37000t)
サラトガ(1920年起工、1925年進水、1927年就役、基準排水量37000t)
レンジャー(1931年起工、1933年進水、1934年就役、基準排水量14810t)
ヨークタウン(1934年起工、1936年進水、1937年就役、基準排水量20100t)
エンタープライズ(1934年起工、1936年進水、1938年就役、基準排水量20100t)
ワスプ(1936年起工、1939年進水、1940年就役、基準排水量14900t)
ホーネット(1939年起工、1940年進水、1941年就役、基準排水量20000t)
以上8隻。基準排水量の合計は約18万tである。
すなわち、あれだけの国力差がありながら、開戦時アメリカを上回る空母を保有していたのである。これが航空軽視であろうか。いや極めて航空偏重であると思う。
また練度に関しても極めて高かった。
連合艦隊での雷撃訓練では実戦と同様護衛を受けながら洋上を自由に回避する主力艦隊に対して60%以上、空母加賀の艦上攻撃機隊に至っては85〜90%の命中率を記録している。
実戦でもマレー沖海戦での命中率は40%。1942年4月セイロン島空襲に伴い発見し重巡洋艦ドーセットシャーとコーンウォール、空母ハーミーズに対して実施した急降下爆撃では命中率が80%を超えた。普通は15%程というから実戦の緊張下立派、、、を通り過ぎて神懸かり的な成績である。
戦艦に関してはどうか。
日本海軍が開戦時に保有していた戦艦は以下の通り。
金剛(1911年起工、1912年進水、1913年就役、基準排水量32200t)
比叡(1911年起工、1912年進水、1914年竣工、基準排水量32156t)
霧島(1912年起工、1913年進水、1915年就役、基準排水量31980t)
榛名(1911年起工、1912年進水、1915年竣工、基準排水量32156t)
扶桑(1912年起工、1914年進水、1915年就役、基準排水量34700t)
山城(1913年起工、1915年進水、1917年就役、基準排水量34500t)
伊勢(1915年起工、1916年進水、1917年就役、基準排水量36000t)
日向(1915年起工、1917年進水、1918年就役、基準排水量36000t)
長門(1917年起工、1919年進水、1920年竣工、基準排水量39130t)
陸奥(1918年起工、1920年進水、1921年就役、基準排水量39050t)
以上10隻。基準排水量の合計は約35万tである。山城の大改装後の基準排水量はWikipediaに39130tとあるが何かの間違いであろう。大和と武蔵は開戦当時建造途上で就役していない。
対するアメリカは
ニューヨーク(1911年起工、1912年進水、1914年就役、基準排水量27000t)
テキサス(1911年起工、1912年進水、1914年就役、基準排水量27000t)
ネヴァダ(1912年起工、1914年進水、1916年就役、基準排水量27900t)
オクラホマ(1912年起工、1914年進水、1916年就役、基準排水量27900t)
ペンシルヴェニア(1913年起工、1915年進水、1916年就役、基準排水量31900t)
アリゾナ(1914年起工、1915年進水、1916年就役、基準排水量31900t)
ミシシッピー(1915年起工、1917年進水・就役、基準排水量33400t)
ニューメキシコ(1915年起工、1917年進水、1918年就役、基準排水量33400t)
アイダホ(1915年起工、1917年進水、1919年就役、基準排水量33400t)
テネシー(1917年起工、1919年進水、1920年就役、基準排水量32600t)
カリフォルニア(1916年起工、1919年進水、1921年就役、基準排水量32600t)
メリーランド(1917年起工、1920年進水、1921年就役、基準排水量32500t)
コロラド(1919年起工、1921年進水、1923年就役、基準排水量32500t)
ウェストバージニア(1920年起工、1921年進水、1923年就役、基準排水量32500t)
以上13隻、基準排水量の合計は約43万tである。サウスダコタは開戦当時建造途上で就役していない。
「航空機の時代になった」と言われるのは、1941年12/08真珠湾攻撃で「戦艦が航空機攻撃により沈没したこと」、1941年12/10マレー沖海戦で「作戦行動中の戦艦が航空機攻撃により沈没したこと」による。1941年12/16就役の戦艦大和は言うまでもなく、1942年08/05就役の戦艦武蔵建造に関しても、その戦訓は生かしようがない。
また「真珠湾攻撃で空母+雷撃機の破壊力が分かったのだからそれ以後は戦艦の建造を止めて全ての資源を空母と航空機に投入すべきだった」という意見も間違っている。
日本海軍は真珠湾攻撃とマレー沖海戦の結果を受けて当時建造途上にあった大和型戦艦3号艦と大和型戦艦4号艦の製造を中止し、大和型戦艦4号艦を解体した。改大和型、超大和型は計画のみで起工すらされていないので、当時建造途上にあった戦艦は大和型戦艦4隻のみである。すなわち日本海軍はすでにほぼ完成していた大和と武蔵を除き、戦艦の建造を実際に全て中止しているのである。大和型戦艦3号艦はすでに工事が7割進捗しておりもし解体するとなればそれ自体が大事業になってしまうため「とにかく浮揚出渠だけしてドックを空けろ」という指示が出た。1942年04/23の宇垣纏連合艦隊参謀長の陣中日誌の記載として「戦艦は大和型戦艦3号艦までとしその後は空母製造に注力する」旨の話し合いがもたれたという下りがあるという。
1942年06/05にはミッドウェー海戦で空母4隻が沈没して空母を急造する必要性が高まり、09/04には46cm砲運搬船樫野が撃沈されて戦艦として完成させることも難しくなったため、大和型戦艦3号艦を空母に変更することが決まった。信濃である。
ここまでのことから、99%完成していたであろう戦艦大和は言うまでもなく、90%完成していたであろう戦艦武蔵も空母改造が非現実的であるのは言うまでもなかろう。
以上の事実から「日本海軍としては当初から航空を重視し、さらに早い時期から非常に熱心に戦艦から空母への転換を進めている」印象を持たないだろうか。空母の製造ペースでアメリカに圧倒されたのはひとえに日本とアメリカの工業力の差によるのであって、日本海軍が戦艦に固執して空母増産に怠慢であったわけではない。いや戦艦伊勢や日向を航空戦艦へ改造する愚を冒すほどパニック的に空母増産に務めたのが事実である。
もし「戦艦を止めて空母を作るべきであった」というのであれば、どの時点で、どのドックで、どういう予算を組んで空母を作るべきだったのか、その航空隊はどこでどのように機材と人員を揃えるのか、提示すべきではあるまいか。
余談だが空母に載せる航空隊は特別な訓練が必要で時間も資金もかかる。洋上飛行には目標が少ないので難度が高い。作戦行動中の母艦は誘導電波も出せないし、離着陸作業中は風上に向かい全力航行を続けるため帰還だけでも大変だ。着艦は曲芸に限りなく近い特殊技能である。
「いやでもそもそも真珠湾攻撃の結果を待たず大和級4隻を起工しないでその資源を使って空母、巡洋艦、駆逐艦、航空機を多数作っていれば、、、」ってのも、まぁ論理上では不可能ではないものの、一体どれだけの障害があったかと思う。
機動艦隊を主力とする提唱者の山本五十六自身、航空主導で戦えると確信を持てたのは1941年10月の訓練において、戦艦長門がどのように躱しても四方八方から突入して来る雷撃機の魚雷が命中する状況となり「沈没は不可避」という結論が出た時なのだ。いや真珠湾攻撃後のマレー沖海戦に際しても「レパルスはやれるがプリンス・オブ・ウェールズは無理だろう」と言っていたそうなんである。
戦艦大和は起工が1937年11月、進水が1940年8月。戦艦武蔵の起工は1938年3月、進水が1940年11月である。
個人的には状況が分かれば分かる程、そして福島第一原子力発電所の事故の後で日本において起きていることを考えれば考える程、少なくとも現代の日本人から簡単に「1937年の段階で大和級の戦艦を起工せず正規空母を作れば良かったんだよ」などと言えるような話ではない、と思う。んなことできるんだったら2005年6月の段階で政府と電力会社の人が当ブログ記事東海大地震で一番危険な要素読んで2011年3月までに原子力発電所全廃し、電気不足は社会の仕組みを変えることで対応できてるって。完全な机上の空論、しかも結果論である。
それと、本当に真珠湾攻撃の瞬間「戦艦の時代は終わった」のであろうか。
航空機の重要性が認識されたことは言うまでもないが、その瞬間から戦艦が全く無用の長物と化したわけでもなく、制空権を確保した上での射撃はマレー沖海戦後も有効であり続けた。
日本海軍によるヘンダーソン基地艦砲射撃は戦術的に大きな戦果を上げたし、レイテ沖海戦ではジュトランド海戦での戦訓そのままの結果が出ている。アメリカ海軍が沖縄上陸援護に行なった艦砲射撃は日本陸軍に大きな被害をもたらした。
無論日本海軍のしたことが全て正しかったわけではないだろう。例えば△11が見るに真珠湾攻撃でネヴァダ、オクラホマ、アリゾナ、カリフォルニア、ウェストバージニアを沈没させ圧倒的に有利になったその戦力差を活用できなかったことは明らかな問題だと思える。
しかし批判するのであれば、日本海軍の置かれた状況をある程度理解しておかなければなるまい。冤罪によって偽犯人が逮捕断罪されている時間は、そのまま真犯人が逃げおおせるために与えられた時間でもある。
「過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」(リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー)
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