2013年6月20日 (木)

コンタックスIIの信頼性

 世間ではなぜか壊れやすいことになっているが、これはデマである。△11の所有機はリボン切れ以外の問題はなく長年動いているし、ライカ・コンタックス論争、情報まとめに書いた通り実戦でハードに使った人の証言でも壊れにくいカメラだ。ただリボン切れに関しては、ポリエステル製に交換すれば生涯一度きりに限定されたとは言え、メーカーが存在しない今「消耗品のわりには交換が大変だ」ということは言えるかも知れない。

 壊れにくい方だとは思うが、それでもさすがに納得できないのはコンタックスIIについての「40万回以上シャッターを切っても、補修の必要がないことというのが、品質検査の基準であった」(『クラシックカメラ専科No.12 ミノルタカメラの全て』P139)という下りである。

 これは相当に多い数字だ。比較にニコンが出している数字で言えば、控えめな表示ではあろうと思うがニコンF3が10万回。ニコンD3が30万回。

 これでは師匠が冗談っぽく言っていた「ライカの修理体制がしっかりしているのは壊れるからだ。コンタックスは壊れないから、そのようなものは必要ない」が本当だということになってしまうではないか。
 いやいやこれはもちろん冗談である。36枚撮りフィルム10本を1日で撮れば360回、このペースで行くと1年で131400回、3年で394200回、オーバーホールが必要になる。どんなに頑強であろうと、修理・整備体制が完備していない機械を業務用に使えるわけはない。

 しかし時代を考えれば完全に常識外である。ほとんど「あり得ない」と言ってもいい。ましてフォーカルプレーンシャッターと言えば布幕しかない中で金属幕シャッターを採用したのは1932年コンタックスI発売時であるから、実用化以後高々4年の技術なのに、、、
 「そんなこと言っちゃって大丈夫?」77年前のセールストークに老婆心を感じてしまう△11なのであった(^_^;

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ライカ・コンタックス論争、情報まとめ
「コンタックスは、ライカに対抗して作られた」は嘘

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2013年5月12日 (日)

「コンタックスは、ライカに対抗して作られた」は嘘

 巷に「1932年3月に発売されたコンタックスIは、1925年に発売されたライカI(A)の成功を見て投入された。」「ただしツァイス・イコンのプライドを賭けてコピーを避けるため、可能な限りライカと反対の機構を採用した」という言説がある。

 「反対の機構を採用した」というのは、シャッターの布幕横走りを金属幕縦走りにしたとか、ボディーの丸形を角形にしたとか、巻上ノブをボディー上面でなくボディー前面につけたとか、ピントリングの回転方向が逆だとかいうことを言っているのであろう。

・シャッターの走行方向、ライカは横走り、コンタックスは縦走り
 コンタックスの縦走りシャッターは、ライカと反対にするためにそうなったのではない。
 オットマー・アンシュッツは野鳥を写し止めるために最高速1/1000秒を持つフォーカルプレーンシャッターを開発して、ツァイス・イコンの前身の一つであるゲルツに持ち込み、「ゲルツ・アンシュッツ・モーメント」、後のアンゴーが発売された。コンタックスI登場以前のフォーカルプレーンシャッターカメラの代表的存在で、かつ報道用カメラがスピードグラフィックになる前の時代の報道用カメラとしても有名、特に高速の対象を撮影する場合に多用された。発売時期は資料によって1882年(「ツァイス・イコン物語」P122)、1890年(ハヤタ・カメララボ)等と分かれるが、まぁ19世紀の末である。1905年にアンゴーに改名された。時期によるのかも知れないが、最高速1/1200秒のものもある。このフォーカルプレーンシャッターは、縦走りである。
 今のところシャッター関係のノブがどの向きについているかだけで見ただけであって細かく確認してはいないが、実際カール・ツァイス・パルモスバウ/イカのミニマム・パルモスも、コンテッサ・ネッテルのデクルロー・ネッテルもミロフレックスも、エルネマンのミニエチュア・クラップも、フォクトレンダーのヘリアーも、、、写真乾板時代のありとあらゆるフォーカルプレーンシャッターは縦走りである。
 なぜなら、動体撮影において幕の走行時間は短い方が像の変形が少なく、また高速化のために有利だから。長い距離を走らせるのと短い距離を走らせるのでは短い距離を走らせる方が短い時間で終わるに決まっており、すなわち画面が長方形であれば長辺を走らせるより短辺を走らせる方が有利であり、すなわち画面が横長である限り縦走りということになる。
 コンタックスでシャッターが縦走りになったのも、コパルスクエアに代表される現代的なフォーカルプレーンシャッターが縦走りなのも、この理由からである。

 ではなぜ横走りのフォーカルプレーンシャッターがこの世に存在するようになったのか。
 元祖かどうかは知らないが、横走りフォーカルプレーンシャッターを備える最初期の製品としてロールフィルム・パルモスがある。これは「シャッターだけのことを考えれば縦走りシャッターの方が有利に決まっているとしても、ロールフィルム巻上動作との連携を含めたカメラ全体の有機的構成を優先する」そういう、ロールフィルム時代に対応した新しい考え方に基づいているのだ。ライカもこれと同じ考え方を採っている。そして竹田正一郎はオスカー・バルナックがカール・ツァイスに勤務していた時代にこのカメラを見てライカのヒントを得た可能性について言及している(「ツァイス・イコン物語」P38)。
 これはオスカー・バルナックを貶めているのではない。ライカが発売された時、ミニチュアカメラとして扱われたと思うし、製造元のエルンスト・ライツ自身もそう考えていただろう。そうであればカメラ内部での歯車の流れを統一することで効率化・小型化できる利点は大きい。ミニチュアカメラに使ってこそ、この新しい考え方は生きて来るのだ。
 ライカの普及以来それを手本とし、、、はっきり言ってしまうと丸々パクり、、、ライカ型シャッターがありとあらゆるメーカーで作られ「よくあるシャッター形式の一つ」になったため一時「原則横走り」というような雰囲気になったが、元々フォーカルプレーンシャッターは縦走りで当然というか、「原則縦走り」のものなのである。

 しかしその後、コパルスクエアの普及以来はまた縦走りが原則になって行った。この理由は色々考えられるだろうが、一つはフォーカルプレーンシャッターを備えるカメラの主流がレンジファインダーカメラから一眼レフカメラに移行したから、が挙げられるだろう。プリズムが上に出っ張るのでボディーの小型化に限界があり、開き直って大型多機能にしてしまうのも選択肢としてアリになった。またミラーは縦に動作するので、シャッターとフィルム巻上で歯車の流れを横に統一してもカメラ全体を見た時には歯車の流れを統一できるわけではない。
 さらにデジタルカメラとなれば写真乾板時代と同じくフィルム巻上は考慮不要、横走りにする理由は完全になくなった。

 さて折角高速シャッターが実現されても高速レンズがなければ露出不足になってしまい結局高速シャッターは切れない。
 1910年頃当時世界最高速の1/2500秒を備えていたコンテッサ・ネッテルのデクルロー・ネッテルはセルフキャッピングに改良された際に最高速1/1000秒になってしまっているが、これはレンズがテッサーしかなかったことも要素としてあると思う。フィルム外箱には天気が快晴でISO100のフィルムを使用した場合F11でシャッター速度1/250秒と書いてあるが、これによればISO25のフィルムと開放F4前後のレンズしかない状態では、快晴ですら1/1000秒は切れないのだ。適正露出で切れないシャッタースピードなどあっても意味がない。
 コンタックスの場合はエルネマン時代すでに高速レンズの権威であったルートヴィッヒ・ベルテレがビオゴン35/2.8だのゾナー50/1.5だのゾナー180/2.8だのといった高速レンズ群を設計したので、そこで初めて1/1000秒や1/1250秒の実効性が出て来るわけだ。

・シャッター幕、ライカは布幕、コンタックスは金属幕
 コンタックスIの金属幕シャッターは、ライカと違うようにするためにそうなったのではない。

 フォーカルプレーンシャッターは、幕を巻かねばならない。「金属を巻くなんて、どうやって?」その方法を無から創造するのは並大抵のことではない。「ライカと機構を変えるために」そんないい加減な、必然性のない理由で考えつけるようなものではない。

 コンタックスが世に出るまで、全てのフォーカルプレーンシャッターは布幕であった。ライカが布幕だったのは当時レンズがガラス製なのと同じくらい当然の話で、反応すべき事柄でもなければそもそも当然過ぎて反応できる事柄ではない。

 フォーカルプレーンシャッターはその名の通り焦点面に幕がある。布幕のカメラを、キャップせずに太陽に向ければ、幕が焼けてしまう。もちろん布幕しか存在しない時代、皆が「フォーカルプレーンシャッターを備えるカメラを使う以上、ユーザーが気をつけて当然」と思っているわけで、誰からも文句は言われない。しかしもしほとんど当時あり得なかった金属幕を作れれば、安心して使用できる。大きな利点だ。ましてコンタックスの場合は前述の通りルートヴィッヒ・ベルテレが設計した高速レンズを装備しているのであるから、布幕であれば幕を焼損する危険は倍加する。
 是が非にも金属幕にしたいから、金属幕にしてあるのである。

 金属幕シャッターができてしまえば、焦点面に常時布幕を晒すなど、心得を持った人間のみが使う特殊カメラとしてしか成立しない設計であろう。

 ツァイス・イコンの製品であっても、コンタックスSやコンタレックスは布幕である。一眼レフカメラはミラーで幕が保護されているから、布幕でも良いのだろう。

ボディー形状、ライカは丸形、コンタックスは角形
 コンタックスIのボディーが角形なのは、当時のツァイス・イコンの研究で「角形ボディーの方が手ぶれが少ない」という結果が出たからだ、という話を読んだことがある。
 実際には「ライカは手ぶれが多くて使えない」という話は聞かないから、このような研究があったとしてもその結論は誤りであったろう。もしかしたら「ライカと機構を変えるためにではない理由で角形にしたのだ」と言うがためにそういう研究をでっち上げた、という邪推も不可能ではない。
 しかし「ライカと機構を変えるために角形にしたのだ」という推測と矛盾する理由がある以上、何も調べずにその主張を続けるのは乱暴だろう。

 そもそも、世界最初のカメラ「ジルー・ダゲレオタイプ」以来、カメラは木箱であることが多かったので、数少ない例外を除き角形である。

・ピントリング、ライカは左に回すと無限遠、コンタックスは右に回すと無限遠
 コンタックスのピントリングの回転方向がライカと逆なのは、ライカと反対にするためにそうなったのではない。

 ヘリコイドの回転方向は1929年発売のイコンタIでも「右に回すと無限遠」である。120フィルムを使用し6×9cm判のカメラの機構を、「ライカと反対にするためにそうした」という推測は無理筋ではなかろうか。それを言うならイコンタIのピント合わせがレンズ全群繰り出しでなく前玉回転なのは、ボディーが丸形ではなく角形なのは、ファインダーが光学式でなく折畳式枠なのは、フィルム巻上がノブ式でなくキー式なのは、シャッターがフォーカルプレーン式でなくレンズシャッター式なのは、非撮影時の小型化の手段に沈胴でなく蛇腹を採用したのは、、、ライカと逆にするために決めたのか。いや誰もそんなことは言うまい。
 イコンタの、ボディー上面端にてフィルム巻上軸と直結する巻上機構で素直に巻くのは「ライカと同じ」と言えば同じである。

 そもそもヘリコイドを採用する以上「左に回すと無限遠」「右に回すと無限遠」の2通りしかない。
 ツァイス・イコンの数ある前身メーカーの数ある製品の中には当然ピント合わせをヘリコイドによって行なう製品もあるだろう。それらが全て「右に回すと無限遠」なら、伝統に従っただけである。「左に回すと無限遠」「右に回すと無限遠」両方あったのならツァイス・イコンとして「右に回すと無限遠」に統一した結果ライカと逆になっただけだ。全てが「左に回すと無限遠」だった場合にのみわざわざ「イコンタIはライカと反対にするためにそうした」と言えるが、そんなことはあるまい。

巻上ノブ、ライカは上面、コンタックスは前面
 コンタックスIの巻上ノブは、ライカと違うようにするために前面に置かれたのではない。
 竹田正一郎はAE化の可能性を考慮した、という説を唱えている(「ツァイス・イコン物語」P141)。1935年に世界で初めての露出計内蔵カメラとしてコンタフレックスが発売されたのはなぜか、コンタレックスの絞りがボディー側にあるのはなぜかを考えてみれば、△11もその可能性はあると思う。

シャッター最高速、ライカ1/1000秒、コンタックス1/1250秒
 コンタックスI発売当初1/1000秒だった最高速が1936年に、、、一説によればコンタックスI-7から、一般的な話ではコンタックスIIから、、、1/1250秒に上げられた理由も、「1/1250秒などという切りが悪い数字にしている」のを根拠とし「1935年に1/1000秒を持つライカIIIaが発売されて追いつかれたから無理に形式だけでも突き放したことにしたかったのだ」と考える人がいる。
 無論その可能性を排除はできないが、そうではない可能性もある。

 最高速は、「切りが良い」数字でない場合が多い。例えばこの時代のレンズシャッターで見るとその最高速は1/200秒、1/300秒、1/400秒、1 /500秒と各種ある。特に1/500秒より高速のシャッター速度はこの時代「高速特殊カメラ」の領域であって、その最高速では少しでも高いシャッター速度を市場が要求していただろう。少なくともアンゴーの一部がシャッター最高速1/1200秒を備えるのはほぼ間違いなくその理由だと思われる。
 1982年に発売されたニコンFM2は当時フォーカルプレーンシャッターカメラのX接点シンクロ速度で世界最高速を実現したが、これは倍数系列から外れる1/200秒であった。また1998年に発売され、一般に販売されたフォーカルプレーンシャッターカメラの最高速で今もって世界記録を保持するミノルタαー9の最高速は1/12000秒であった。倍数系列が当然になって「切りが良い」数字がはっきりしたこの時代においてすら、技術者が「世界最高速であれば倍数系列に沿っていなくても仕方がない」と考えていた証左である。そうでなければ日本光学工業の技術者はX接点1/250秒のシャッターが完成するまで黙っていただろうし、ミノルタの技術者は1/16000秒のシャッターが完成するまで黙っていただろうし、結果として「一般に販売されたフォーカルプレーンシャッターの世界最高速」は1/8000秒に留まったことだろう。

 またCxゾナー50/1.5は、日本光学工業が「世界最高速」を称してSニッコール50/1.4を発売し、さらにはSニッコール50/1.1など日本で超高速レンズの激しい競争が起きても、そのままの明るさで販売され続けた。この頃カー ル・ツァイスはドイツ東西分割の煽りを受けて体力を失っており、超高速レンズを作るどころではなかったのかも知れない。しかし乾坤一擲全力を尽くしたはずの、次の旗艦コンタレックスシリーズでも特別明るい標準レンズは出なかった。他メーカーとの対抗が問題であったのなら、ここでREXプラナー50/1.0だのREXプラナー55/0.9だのが製品化されたはずではあるまいか。1932年にはウィリー・メルテがRビオターF0.85を設計している(「クラシックカメラ専科No.3、戦後国産カメラの歩み」P151)んで、設計能力は問題なかったと思われる。

・ライカの発売1925年、コンタックスの発売1932年
 そもそもコンタックスIはライカの成功を見てそのおこぼれに与るために開発が始められたのではない。
 コンタックスの開発を主導したのはエマヌエル・ゴルトベルクであるが、この人は1917年にイカの社長となって、1921年発売のシネカメラの設計にも携わってシネフィルムの可能性に気がつき、保守的な周囲を説得し始めている。1926年にはツァイス・イコンの社長にスライドして就任し、同じ頃、後にコンタックスI開発責任者となるハインツ・キュッペンベンダーを片腕としている。

 ライカは発売されて即高い評価を受けたわけではない。新規事業としては比較的早い時期に黒字化したとは言われるが、ライカI(A)は幕の粘つき問題でドタバタした。人から見て羨望を受けるような成功は早く見積もっても1932年3月発売のライカIIからだろう。
 コンタックスIの開発はライカIIの成功を見る前なのは言うまでもなく、ライカI(A)発売を見る前からスタートしているのである。

 エルンスト・ライツは、前身であるオプティシェス・インスティトゥートが1849年に設立されて以来顕微鏡メーカーであった。1905年ヒュッティヒにボディー本体を外注して「カメラ製造」をしたことはあるが、実質的なカメラ製造への参入は1925年のライカI(A)発売による。
 これに対しツァイス・イコンは1926年に成立したばかりではあったものの、それぞれが大きなカメラメーカーだったイカ、エルネマン、ゲルツ、コンテッサ・ネッテルの4社が合併したものである。
 イカは1909年に成立しているが、それまではそれぞれが大きなカメラメーカーだったヒュッティヒ、カメラヴェルク・ドクトル・クリューゲナー、ヴンシュ、カール・ツァイス・パルモスバウの4社が合併したものだ。
 上述した中で一番源流が古いのは1862年に成立したヒュッティヒである。この頃のカメラは木箱でありメーカーは家具や指物からの転向組が多くヒュッティヒもその例に漏れないのだが、世界最初のカメラ「ジルー・ダゲレオタイプ」発表からわずか17年後である1856年に創業者がカメラ製造を学び、そして1906年には「ヨーロッパ最大のカメラメーカー」になっている。
 シャッターの走行方向やヘリコイドの回転方向のところでも少し言及した通り、それまでに存在したカメラ技術の利点欠点について熟知している技術者をツァイス・イコンは多数抱えていたわけで、知識と技術と判断能力とプライドを併せ持つ者が、一体是非もなく「あらゆる機能を可能な限り反対にする」などということをするものか。それは「あらゆる機能を可能な限り同じにする」コピーと同じで、先行者に呪縛されているのである。まして当時大メーカーの寄せ集めだったツァイス・イコンが折角「有機的な一体として新たな歩みを始める象徴」として企画した旗艦の設計について、新規参入した小メーカーの新製品にいちいち呪縛されているわけがない。

・コンタックスIの、エルンスト・ライツ特許侵害疑惑
 コンタックスIは「距離計の2つの窓の間にファインダーを組み込む、というエルンスト・ライツの特許を侵害しており、途中のマイナーチェンジでこれを回避した」とされている。これに伴い102mmあった基線長が93mmに短くなってしまった。

 この特許は非常に有名で、例えばキヤノンが飛び出し式のファインダーを考案したり、戦前のレオタックスの基線長がたった27mmになってしまったのはこれを避けるためだったとされている。

 これに関しては「日本においてはエルンスト・ライツの実用新案が取得され、キヤノンがこれを避けるためにびっくり箱にしたのは事実だが、ドイツにおいては1930年距離計の間にファインダーを組み込む形での特許をツァイス・イコンが取得しており、エルンスト・ライツは特許も実用新案も取得できていない。ツァイス・イコンがコンタックスのファインダーを外側に移したのは、ドレーカイル式距離計が使用する長いプリズムを避けるためである」という説がある。

・まとめ
 現代のように「新製品がゴロゴロしていて誰も見向きもしない」という状況ではないから競合品は調査しただろうし意識した部分もあったかも知れないが、「機能を全て違うようにする」などという設計手法を採ったことはあり得ないように思われる。
 現代日本においてそのように見られているとすれば、ライカ・コンタックス論争においてその差を殊更に採り上げられたからだろう。この論争はドイツでも存在したようだが日本において特に激しかった。

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2013年3月17日 (日)

レンズの明るさを示す「F値」は大文字で

 昔パソコン通信で色々な人の書いた文章を読み始めた頃から理解できないことの一つが、「f値」とか、「f4.5」とか書く人がいることだ。

 「f/4.5」という表記もあって、大文字と小文字でお互い逆数であることを示すのでこれも正しいのではあるが、「f4.5」ではない。
 光学の世界で小文字のfは一般に焦点距離であり、混乱を防ぐために避けた方が良いと個人的には考える。実際以前より「f/4.5」式の表記は少なくなったと思う。まぁ、「f/4.5」式表記のfは元々焦点距離なのかも知れないが、、、

 そもそもまともなどこの誰が「f値」とか、「f4.5」とか書いているというのだ。メーカーのカタログで表記されているそのまま写して書いていれば恥をかかずに済むものを、なぜわざわざ変えて書くのか、それが理解できない。正しい表記をそのまま書けば正しい表記になるし、変えて書けば間違いになるに決まっているではないか。

 「F値」、「F4.5」でなければならない。

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2012年11月 8日 (木)

沢田教一が「地面に投げつけ」た「ニコン」は何であったか

 今回は「沢田教一はニコンを愛用した」は嘘の続編、、、ではないけど関連で、

》(△11注:数少ない日本人の友人である上野義良が日本製カメラ
》のセールスでサイゴンに来たが)いくら勧めても沢田は決して日本
》のカメラを使おうとしなかった。
》「日本のカメラは写りが悪い」
》「日本のカメラを使うと壊れちゃうんだよ」
》といつもケチョンケチョンにけなすのだった。
》沢田にとって良いカメラとは、まず第一に壊れないカメラのことだっ
》た。戦場での写真には、ライカとともにニコンを一台下げているも
》のがある。ジャングルで取材中に、このニコンが壊れて使えなくなっ
》たことがあった。
》「こいつのおかげで、今のショットを撮り逃がしたんだ」
》ニコンを地面に投げつけながら、珍しく沢田は声を荒げて怒った。
》いらい、沢田のライカ信奉は、ますます確たるものになった。
(『ライカでグッドバイ』P155)

 で「地面に投げつけ」られた「ニコン」とは何だったのだろうか?という話である。

 今のところ考えられる候補は沢田教一が提げて写っている写真を見たことがある日本光学工業のカメラがこれらだけ、ということでニコンFとニコノスだ。

 「ニコノスはニコノスであってニコンじゃないぞ」という人がいるかも知れない。
 確かに「日本光学工業」が「ニコン」や「ニコノス」を生産していたので、「ニコノスはニコンと呼べない」という議論は形式的には成立しないこともない。が、それは当時の空気を知らないが故の机上の空論だ。当時はメーカー名とブランドを明確に区別している人はほとんどいなかった。今だって少ないだろう。
 日本光学工業という会社名は知らなくても、ニコンの名前は誰もが知っている。日本光学工業がニコンに社名変更したのは1988年であるが、実際にはそのずっと前から日本光学工業の製品について「ニコン製」という物言いはされていた。相当に詳しい人であったとしても、ニコノスを見て「ニコン」と表現するのは当時としては全く不思議ではない。
Nikonoscatalogue_2 逆に当時もし「これはニコノスであってニコンではない」などと主張したとすれば、何を主張しているのか全く理解できず「ニコンだよね?」とパニックに陥る人や、「どうでも良いことにこだわってコイツ変な奴だな」と奇異の目で見る人の方が断然多勢だったことだろう。
 左のパンフレットを見て欲しい。「ニコンニコノス」とあり、丸に斜めNikonのロゴも入っている。メーカー自身が明確に区別していないのである。

 考える前に、基礎データをまとめよう。
 沢田教一が戦場にいたのは大きく分けて1965年1月から1968年9月と、1970年1月から1970年10月である。
 この間の1969年12月には「藤巻健二が沢田教一にニコンFブラックを渡し、ライカM3クロームを預かった」可能性が高い。

 さて、沢田教一が「ニコン」を「地面に投げつけ」た話は、沢田教一が戦場カメラマンになってまだ間もない時期の話だろう。
 なぜなら、人間というものは、道具に対してまず先入観を持ち、その後実際に道具を使ってみてその印象を確定または変更し、道具を取捨選択して行く。自分のやり方を確立した時、道具に対する印象もまた確定している。確立した自分のやり方で仕事を遂行している人間が、選択して使っていた道具が壊れて仕事ができなくなっても「仕方がない」「自分の責任である」等と感じることだろう。少なくとも普段あまり感情を表さない人間が「地面に投げつけながら、珍しく沢田は声を荒げて怒った」ということにはならない。沢田教一が気に入って使っていたライカだって機械である以上全く壊れなかったわけではないだろうが、もし壊れても沢田教一はライカを「地面に投げつけ」たりはしなかったと思う。だから「ニコン」を「地面に投げつけ」たのは、沢田教一が何をどう使えば自分が仕事を遂行できるのかまだよく分かっていない時期であるはずなのだ。
 単なる推測だけでなく根拠もある。「ニコン」を「地面に投げつけ」た後、「沢田のライカ信奉は、ますます確たるものにな」(『ライカでグッドバイ』P155)り、その結果1967年11/27には「ライカを六台もっていた」(『ライカでグッドバイ』P155)。とすれば「ニコン」を「地面に投げつけ」たのは1967年以前である。

 1967年以前である旨言えなかったとしても、△11はニコンFブラックではないと考えている。
 なぜなら、沢田教一の写真を数多く見ていると、ニコンFブラックを渡されてから期間が短いにも関わらず、ニコンFブラックを提げて写っている写真は結構多いのである。まぁ当初全く無名だった沢田教一が、時期が後になればなるほど有名人となり写真が残る可能性が高くなっているであろうことは勘案する必要はあろうが、1970年1月以降ニコンFブラックはサブカメラとしての地位は得ていたように思われるのだ。
 そしてニコノスには、日本製カメラを忌避しながらもまだ自分の仕事のやり方を確立していない沢田教一が「まぁこれだけは一度使ってみるか」と感じたかも知れない特異性がある。何しろ使う場所は高温多湿のベトナムで、細かいことに構っていられない戦場。カメラそれ自体に防水性を持ったカメラはこのシリーズが世界初で、まだ当分は世界唯一なのである。

 ニコノスとすれば何型だろうか。

 このシリーズはラ・スピロテクニークLa Spirotechniqueが1961年5月に発売したカリプソCalypsoに始まる。製造販売能力が貧弱であったであろうラ・スピロテクニークは帝国酸素を通じて日本光学工業に売り込み、1961年技術提携契約が成立し、カリプソほぼそのままに1963年8月ニコノスI型として発売された。1968年1月には改良型のニコノスII型が発売された。
 1970年10月沢田教一死後の1975年6月発売されたニコノスIII型は除外される。販売時期が早く、台数が少なかったカリプソも除外して良いだろう。とすればニコノスI型かニコノスII型だ。
 前述のように「ニコン」を「地面に投げつけ」たのがもし1967年以前であると言えるならば、まだニコノスII型は発売前であり、ニコノスI型で確定する。

Nikonosi

Nikonosii ニコノスI型とニコノスII型に外見上の違いはほとんどない。気がつくのはニコノスII型の額部分に「II」という文字が入ったこと、巻き戻しノブがクロームからブラックになったことくらいだ。
 絞りとピントの表示窓の形式が変化しているが、レンズはバヨネットマウントで交換可能でボディーと違う時期の製品に交換されているかも知れず、これだけでは何とも言えない。

 沢田教一が写真で提げているニコノスを見てみる。
 額部分に「II」の文字は見えないが、しかしマウント下にあるはずの「Nikonos」の文字も全く見えないので、塗りつぶしている可能性もある。ただ一緒に提げているライカM3クローム2台は白い肌を晒しており、元々全体的に黒いニコノスの小さな白い文字を塗りつぶしているとすれば違和感はあるが、、、
 カメラは少し下を向いているので、マウント下の「Nikonos」の文字が見えないことについてはレンズに隠れたり、影になっている可能性はあるかも知れない。
 前述絞りとピントの表示窓については旧式表示に見える。
 以上外見からも、ニコノスI型の方が可能性が高いように思える。

 1967年以前である旨言えなかったとしても、△11はニコノスII型ではないと考えている。
 1969年12月以降ニコンFブラックがサブカメラとしての地位を確立しているとすれば、戦場でそんなにたくさんのカメラを提げられるわけではないから、ニコノスの居場所はない。とすればニコノスII型がサブカメラとして使われる可能性があるのはニコノスII型が発売された1968年1月から、沢田教一がベトナムを一度離れる1968年9月までしかない。
 まぁ9ヶ月あるので形式的にはあり得ないというわけでもないが、しかし現在のように物が満ちあふれている時代でなく、日本光学工業程ちゃんとしたメーカーの製品が発売後すぐに入手できるとは個人的には思えない。またニコノスI型は元々特殊カメラとして特殊用途を満たすために29000台の生産をしたらそれでおしまいの予定であり、実際そのようにされたのだが、1965年12月封切りされた『007サンダーボール作戦』でジェームズ・ボンドの秘密兵器として使われ人気が出てニコノスI型の再発売に近い形でニコノスII型が発売されたという経緯がある。とすればニコノスII型に関しては普段にもまして購入できる時期は後になりそうだ。
 発売後すぐ発注したが実際に入手するまで時間がかかった話は、昔を知る人と話す機会にいくらでも出て来る。例えば、△11のニコンF2の前オーナーは「発売後すぐ買った」と言っていたが、実際に調べてみると製造番号は724万台で1974年2月〜4月頃の製造であり、公式に発売された1971年9月からすでに2年半が経過している。まぁ前オーナーの記憶違いの可能性等もあるのでこれだけでは全然断言できないのだが、、、

 上に挙げたいくつかの証拠から、沢田教一が「地面に投げつけ」た「ニコン」はニコノスI型と考えるのが素直であるように思われる。

 沢田教一のファンの中には非常に綿密に考証する者もいると聞くが、ニコノスI型も時代の遺品で貴重なんで、コスプレに併せてニコノスI型を投げたりしないようにな→沢田教一の熱狂的なファン

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2012年7月 3日 (火)

ライカ・コンタックス論争、情報まとめ

 この論争に対する△11としての基本的立場は「小型軽量を目指したライカと、迅速万能を目指したコンタックスではそのコンセプトがかなり違う。目的が違うものを比較の対象とするべきではない」というところから変わっていない。ここで触れるのは単に野次馬的な観点からである。

 基本的に△11が「ライカ」という場合はライカIIIb、「コンタックス」という場合はコンタックスIIが念頭にある。実際のライカ・コンタックス論争で佐和九郎がK・K・K名義にて「ライカとコンタツクスとどちらがよいか?」を書き、井上鍾が「降り懸かる火の粉は拂はねばならぬ」を書いた時には、ライカIIIaとコンタックスIを前提にしていることは注意が必要かも知れない。
 巷の書籍では、場合によりライカM6とコンタックスG2を前提にしていたりする。

・外観美(佐和九郎の採点、以下同じ:ライカ100点、コンタックス85点)
 日本での論争以前にドイツでも論争があったらしく、佐和九郎は冒頭「ライカはイーストマン製の旧ヴェスト・コダックに基本の形を採った旧い形であるが、コンタックスは近代向の角型を採用したモダン型であるとドイツ雑誌の泥試合記事に書いてあったと記憶している」と書いている。
 佐和九郎は「コンタックスは決して醜い姿ではないが、実用向に重きを置き過ぎて外観美を犠牲にしている傾がある。ライカにはクローム型があり、確かに美しい。」としてライカに軍配を上げている。
 井上鍾の主張は「ライカカメラの両端が圓い形であることは、車輪の圓を圓とする素直なる設計以上のものではない。」「クローム渡金したのは、光と色の美によつて人の心を魅せやうためではない、黒ラックより以上塗に耐久性あらしめるためである。」である。

 この時点で見る限り、どちらかと言うと井上鍾の主張に説得力を感じる。
 ただ「光と色の美によつて人の心を魅せやうためではない」も「耐久性あらしめるため」も、野暮ったく傷が入り難いコンタックスIIにこそふさわしい。ライカのメッキは美しいがすぐ傷だらけになり、コレクター需要により美品の相場がつり上がり「傷一つ1万円」などと言われていたのは周知の通りである。
 戦後ツァイスのメッキは見た目派手になって本質的な美からは退歩したがさらに頑強になり、ハッセルブラッドのCシリーズレンズやコンタレックスの前期レンズの購入を検討する人が「使い込まれた個体も傷が少なく、見た目が使用頻度の目安にならない」と嘆く程だ。

・容積と重量(ライカ100点、コンタックス70点)
 △11に言わせればこれはコンセプトの違いが真っ向出た箇所であり、一番比較してはならないポイントである。特別ライカIIIaが小型軽量であるだけで、それはそのコンセプトが要求しているんである。
 まぁそれでもコンセプトを害さない範囲で小型軽量であるに越したことはないわけだし、実際コンタックスIはライカIIIaと比較して違和感がない程には小型軽量に務めていたようにも見えるので、この時点で比較することはそう的外れでもなかったのかも知れない。

 コンタックスIIも今から振り返ればわぁわぁ言う程デカくも重くもない、普通の大きさと重さのカメラだ。コンセプトに「小型軽量」が入っていない以上減点される理由はない。

・堅牢度(ライカ65点、コンタックス100点)
 世評から見てライカのボディーが実用上の堅牢度においてコンタックスのボディーに劣ったということはなさそうだし、少なくとも佐和九郎が出した点数程の差はないだろう。

 井上鍾の主張「圓いものが弱くて角型のものが強く、薄いものが弱くて厚いものが強いとは、野蠻人か子供騙しの論」は「なるほどその通りだ」と膝を打つような爽快さがある。

・レンズ(ライカ75点、コンタックス100点)
 これは誰も心底からライカが勝るなどとは思っていないだろう。
 もしライカにカール・ツァイスのレンズが装着できたのであれば、そしてその代金を支払う財力もあったなら、ライカファンを自称していた者ほとんど全員が諸手を挙げて自分のライカにビオゴン35/2.8、ゾナー50/1.5を装着したに違いない。
 これに対し、コンタックスにエルンスト・ライツのレンズが装着できたとして、コンタックスファンを自称していた者のうち何人が自分のコンタックスにわざわざビオゴン35/2.8、ゾナー50/1.5ではなくエルマー35/3.5やズマール50/2を装着したであろうか。

 井上鍾の舌鋒もこの分野ではさすがに鈍い。「使用者にとつての問題は撮つた繪の良し悪しである。映寫器にライカレンズを附けて、微粒子ネガ、反轉或はポジの素晴らしき像を檢せられよ。」要するに使用上問題は感じないだろ、という及び腰である。

・シャッター(ライカ60点、コンタックス100点)
 当時この項目が一番問題となった。佐和九郎は「ライカのシャッターが寒さの影響を受けて動作が不正確になったり、動かなくなった実例は耳にタコと申してよいくらい」と書き、これに対し井上鍾は「ライカのシヤター幕が寒氣、熱、湿度に影響されるといふ。彼は初期のライカの幕のことを考へて居るのであらう。それはライツの努力によつて現在の劃期的な幕の出來たことを知らぬものゝ言葉である。」と反論した。

 ライカI(A)で「多くのシャッターはシャッター幕がべた付くことが原因で交換しなければならなかった。他のトラブルとしては寒冷時にシャッターの動作が不調になることであった」(『クラシックカメラ専科No.50 ライカブック'99 ライカのメカニズム』P125)とシャッターに決定的な欠点を露呈させたエルンスト・ライツは対策を急いだ。一時ユーザーに渡す代車ならぬ「代カメラ」として、それまでに世に出たライカI(A)と同数だけ急遽生産されることになったのがコンパー付きのライカI(B)であった。今で言うリコールである。
 対策済のライカIIIaを前提にしているのだから、この議論は井上鍾の主張に分があるように思える。しかしそれはこれより以降エルンスト・ライツが充分な信頼を得たことを知っている現在から見ているからこその結果論であって、まだカメラ業界では駆け出しだったエルンスト・ライツが初期製品に起こした不祥事は当時購入を検討していた人から見れば大きな不安材料となったに違いない。それから、シャッター幕はアメリカのグラフレックスから輸入したので、エルンスト・ライツの努力の成果は「劃期的な幕が出來た」ことにではなく「劃期的な幕を發見出來た」ことにある。

 牧村雅雄が『降り懸かる火の粉は拂はねばならぬ』に寄稿した『機械人のみたライカ』中にある有名な「捲上げる毎に指先に感じるあの抵抗は、リボンの命乞ひの悲鳴だ」という一節は、初見では面白いものの、よく考えて行くとあまり説得力を感じない。
 コンタックスに使われていたリボンは実際相当長い期間その機能を果たしている。例えば、佐貫亦男が愛用したコンタックスIIのシャッターリボンが切れたのは「20年近く使った」(『ドイツカメラのスタイリング』P31)末のことであった。ロバート・キャパは1944年のノルマンディー上陸作戦と1954年にインドシナで殉職した時の両方の時点でコンタックスIIを使っていたとされている。三堀家義は1952年1月に「(△11注:カール・)マイダンス氏が使っていたカメラだったから、いささかの心配もせず、テスト抜きで本番撮影をしたが、案の定、よく写ってくれた。」とコンタックスIIをぶっつけ本番で仕事に使って満足している(『ニコンの世界』P192)。換えても換えてもリボンが切れるようなカメラが、このような使われ方をするはずもない。
 そしてこれはこの論争段階では考慮され得なかったことだが、寿命を終えたリボンは、切れた順に、数段頑強で寿命の長い外科手術用ポリエステルテープに置換されつつある。

 また牧村雅雄は同じく『機械人のみたライカ』に「殊に布紐に斯くも重要な働きをさせながら『全金屬』という宣傳は、その會社の良心をさへ疑ひたくならう」とも書いている。
 しかし布幕フォーカルプレーンシャッターを持つレンジファインダーカメラを持ち歩く場合にキャップをつけるかレンズを太陽に向けないよう留意する必要があり、そこまで神経質になる必要がないであろう金属幕にメリットが存在することは事実である。例えば三木淳はカメラ名を出していないが「夕日のためにカメラのゴム引きのフォーカルプレーンシャッターが焼けて穴が開いたのも知らず撮影を続け、それが全部駄目になった」(『ニコンの世界』P190)話を書いている。

 個人的かつ無責任な仮説だが、機械設計をする場合、重要な箇所を傷めないという目的で、重要な箇所と連動しておりかつ交換しやすい箇所の部品の堅牢度を故意に下げる場合があり、このリボンに関しても、真鍮製金属幕を傷めない目的で布を使った可能性はないではないと思う。
 例えば3枚の歯車で動力を伝達する場合、全て鋼製では何かトラブルでトレーンがスムーズに動かなくなった時などにどの歯車も歯が欠ける可能性がある。しかし鋼製、真鍮製、プラスチック製と3枚の歯車を組み合わせれば、歯が欠けるのはプラスチック製歯車だろう。そこを交換しやすくすれば鋼製歯車は交換しにくくても大きな問題にはならない。
 まぁしかしシャッターリボンを布からポリエステルテープに置換した個体でも全く問題は聞かないから、この仮説は、当時の意図はともかくとして、実利の面でこうだとは言いがたい。

・距離計(ライカ85点、コンタックス100点)
 使用した人から聞いた限りでは「ツァイス・イコンは狂う余地がないように設計している。エルンスト・ライツは狂ってもすぐ自分で調整できるよう設計している」という印象である。

 有効基線長のみで単純比較する人がいるが、倍率をかけることで誤差も拡大されるので倍率より基線長で有効基線長を稼いだほうが精度面では有利であるし、「有効基線長が同じなら倍率が高い方が見やすい」と言う人がいるなど、単純な話ではない。
 ちなみに実際の基線長(mm)×倍率(倍)=有効基線長(mm)はライカIIIaで38×1.5=57。コンタックスI前期型で102×1.0=102、コンタックスI後期型で93×1.0=93、コンタックスIIで90×0.7=63。

 強いて単純比較した結果、世界一のレンズ設計陣を擁するカール・ツァイスをバックに迅速万能を目指すコンタックスが強力な距離計を持っているのは当然すぎる程当然のことである。距離計連動レンズとしてゾナー180/2.8なぞといったバケモノがラインナップされて来るシステムのカメラなのだ。だからこれもコンセプトの違いで説明できる範囲だと思う。

 ここまで「ライカとコンタツクスとどちらがよいか?」にある項目通りに反論して来た『降り懸かる火の粉は拂はねばならぬ』の反論はここで終わる。

・ファインダー(ライカ95点、コンタックス100点)
 比較されているライカIIIa、コンタックスIともにコンタックスII登場により時代遅れにされた史実を知っている者からすれば比較は無意味。笑止である。
 三堀家義は「距離計がファインダーと一つになっている一眼式連動距離計のほうが仕事がしやすく、両方が分離しているライカIIIFでは、仕事がしにくかった。この点で、コンタックスII型は大変に具合が良かった」(『ニコンの世界』P193)と書いている。
 戦後佐和九郎がライカIIIfを前提に「思い切った改造をすれば、コンタックスに似たものとなる。」(『佐和写真技術講座2 カメラとレンズ』)と書いたとおり、ライカM3はコンタックスIIそっくりのカメラになってしまった。

・フィルムの装填(ライカ90点、コンタックス100点)
 ライカのフィルム装填が面倒なのは事実だが、漏光の危険を減らしたりボディーを小型に保ちつつ高い強度を持たせるための設計思想の結果であったりするんだろうから、それで成果が出ているのであればそのコンセプトを必要とする人が「特殊カメラ」として使用すれば良いのであって、その観点では一概に欠点とは言えない。こう見る場合は比較すること自体が間違っている。
 しかし世間にライカは「一般カメラ」として扱われた部分もある。その現状を踏まえれば、90点はかなりの過大評価かも知れない。無論この評価については「カメラがもう少し大きくても便利であることを求められた」ことを見越せなかったことを除けば、エルンスト・ライツの責任ではない。

・精密度と確実性(ライカ90点、コンタックス100点)
 読んでみても結局シャッターへの不信感だけであり、「シャッター」と分けて特に独立項目とした理由が分からない。

・取り扱いの便否(ライカ100点、コンタックス100点)
 佐和九郎はこの項目のみ「とやかくの批評は十分に馴れないのに原因するらしい。」という理由で引き分けとした。

 「馴れ」る程コンタックスIに触ったことはないが、ライカIIIaとコンタックスIで「そのカメラに馴れさえすればほとんど同格、この点差等を付けるだけの差異がない」というのが本当であるならば、コンタックスIIに慣れたらライカIIIaでは太刀打ちできないことになってしまわないだろうか。

・付随事項(ライカ80点、コンタックス100点)
 佐和九郎が「コンタックスが勝る」とした点は「乾板使用可能」「三脚穴が中心位置にある」「金具引き出しにより机上に立てて置ける」「手袋をはめたままで使える」「一般用レリーズが使える」「ボディー内部のゴミを掃除できる」「速写ケースの蓋が撮影の邪魔にならない」。
 佐和九郎が「ライカが勝る」とした点は「双眼写真を写せる」「付属フィルターの平行平面が完全である」「フィルターをかけてもレンズ・キャップをかけられる」。「双眼写真を写せる」とはステレオリーのことだろう。カール・ツァイスのステレオター35/4は1940年発売、エルンスト・ライツのステマー33/3.5は1954年発売だ。

 、、、色々書いているが、少なくとも現代から見て、ほとんどどうでも良いことばかりである。個人的に優劣に関係すると思われるのは「一般用レリーズが使える」「ボディー内部のゴミを掃除できる」だけだ。

・値段(ライカ100点、コンタックス80点)
 現在は普通の独身社会人なら1ヶ月の給与で両方を買えるかも知れないが、当時の人にとってはこの通りであり、かつ切実な要素であったろう。

・合計(ライカ約86.7点、コンタックス約94.6点)
 以上各項目の点数を単純に加算するとライカ1040点、コンタックス1135点、項目数で割れば上記の平均点となる。しかしこの数字を佐和九郎は明示せず、かえって「このままを累計した平均点が真の正しい答ではない。」と書いている。その通り、目的によって評価は変わって来る。

 △11はこの論戦についてこう考える。「結果として双方のファンが多いに楽しんだ。ファンサービスとしては上出来であったのではなかろうか?」
 それと、もしかしたら、激しく非難し合っているようにも見えて、実は阿吽の呼吸で、お互いスリップストリームで引っ張り合っていたのかも知れない。このような激しい論戦となった時、皆論戦の当事者の比較に夢中になり、他のカメラには目が行かないからだ。

関連記事:
「コンタックスは、ライカに対抗して作られた」は嘘

コンタックスIIの信頼性

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2012年6月15日 (金)

現状ほぼ理想のカメラ、クールピクスL23

 個人的には、コンパクトデジタルカメラこそはカメラのあるべき姿の一つだと思う。
 例えば△11が普段使っているクールピクスL23(△11のカメラバッグ)である。

 ライカ判換算で28〜140/2.7〜6.8のマクロ機構付きズームレンズ、手ぶれ補正、フラッシュ内蔵、動画撮影可能、、、一般用のカメラで撮影できる範囲をこちらの期待以上に網羅している。
 嬉しいのはこれが単3×2本で動き、ちょっと大容量のカードさえ入れておけばほぼ際限ない枚数をほぼノーコストで撮影でき、撮影した写真をパソコンで管理でき、その上ズボンのポケットに押し込んでおけるサイズに収まっていることだ。
 単3で動くのは重要である。普段はニッケル水素で懐中電灯等と電源が共用できる。大量に生産され流通しているので安価だ。非常時にはどこでも電池を買って撮影できる。今後電池の進歩を享受できる可能性がある。

 クールピクス990とかはよく壊れたものだったが、これはまだ壊れない。実売価格も非常に安価で、新品が¥6kとかで手に入る。

 贅沢を言えば無論完璧ではない。
 まだ撮影まで時間がかかり過ぎる。ピント合わせもシャッターラグももっと速くして欲しい。
 ズームは手動にして欲しい。パワーズームは思った通りに動くとまでは行かない。
 可能ならライカ判換算20〜ミリが欲しい。昨今のデジカメではデータ量は有り余っており、後でどうせ削るだけなので、望遠側はそんなに要らない。後でトリミングする可能性を捨てるだけの電子ズームなんぞ論外だ。

 今でも存在するのかも知れないが、少し前まで「デジカメは本当の意味でのカメラではないので写真作品を撮影するのには向かない」とかいう論旨をぶち上げているカメラマンがいた。
 多分アンタが信奉しているライカも、世に出て来た頃にそう言われていたと思うけどねぇ。
 このカメラが50年後に現役のカメラとして活用されているとは思わない。そこはライカと違うところだ。しかし時代は変わる部分と変わらない部分があるわけなんで、それも当然だ。単に、小型軽量のカメラは今の時代にも需要があるが、カメラの意味合いは耐久消費財から消耗品に変化したということだろう。

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2012年4月13日 (金)

「沢田教一はニコンを愛用した」は嘘

 親父がニコンFEを購入した時に貰えたと思われる冊子ニコンの世界は小学生の頃の△11の愛読書であった。

 この本がニコンに対する憧れとか欲望を増殖させたことは間違いない。しかし、ニコンが世界最高のカメラだと思えるようになったかと言うとそうではなかった。
 一つは何人もの有名カメラマンが連ねた寄稿であった。ニコンF以後使い始めたであろう若手のカメラマンにはそんな空気はないのだが、ニコンS時代を知る年配のカメラマンの書いているのを読むと「本当はライカやコンタックスが欲しかったけど、、、ニコンは安かった割に使えたねぇ」としか読めなかった。実際そう書いていたのだろうし。

 もう一つが今回話題にする沢田教一の件である。このような記述がある。

》1971年度(ママ)のピューリッツァー賞も、ニコンによる作品
》に授与された。ベトナム戦線において取材にあたったUPI通信の
》沢田カメラマンの『安全への逃避』という力作である」
(『ニコンの世界』P18)

001_2  実際には沢田教一が報道写真部門でピューリッツァー賞を受賞したのは1966年であり、また受賞したのは『安全への逃避』単体でなく1965年に撮影された28点のベトナム写真集である。が、それらは横に置くとして。

 フリージャーナリストの青木冨貴子はこの日本光学工業の主張と真っ向から矛盾する話を書いている。

》(△11注:数少ない日本人の友人である上野義良が日本製カメラ
》のセールスでサイゴンに来たが)いくら勧めても沢田は決して日本
》のカメラを使おうとしなかった。
》「日本のカメラは写りが悪い」
》「日本のカメラを使うと壊れちゃうんだよ」
》といつもケチョンケチョンにけなすのだった。
》沢田にとって良いカメラとは、まず第一に壊れないカメラのことだっ
》た。戦場での写真には、ライカとともにニコンを一台下げているも
》のがある。ジャングルで取材中に、このニコンが壊れて使えなくなっ
》たことがあった。
》「こいつのおかげで、今のショットを撮り逃がしたんだ」
》ニコンを地面に投げつけながら、珍しく沢田は声を荒げて怒った。
》いらい、沢田のライカ信奉は、ますます確たるものになった。
(『ライカでグッドバイ』P155)

》世界報道写真展大賞を初めて受賞した時、ハーグの取材陣は競って
》「どんなカメラを使っているのか」と質問した。当然、彼らは日本
》人カメラマンの口から、ニコン、キヤノンといった答えが返ってく
》ると期待した。が、沢田は決まって「ライカ」と言うのだった。喜
》んだライツ社は、プロット・タイプのカメラやレンズの現場テスト
》を頼むようになっていった。
(『ライカでグッドバイ』P157)

 日本製一眼レフカメラが報道カメラの主流になったのは一般に東京オリンピックが行なわれた1964年頃と言われているから、沢田教一が最初にベトナムに渡った1965年2月当時すでに報道カメラの主流は日本製一眼レフカメラになっていた。まして日本人。当然使っていると想定されて然るべき日本製カメラを沢田教一が使用したがらなかったことは、当時有名な事実だったのだ。

 しかし全く使用しなかったら「ニコンを地面に投げつけ」ることもできないわけで、全く使用しなかったわけではないことも同時に分かる。

 このニコンについて三宝カメラは

》青木富貴子著「ライカでグッドバイ」には、肝心のシャッターチャ
》ンスでニコンFが故障し、怒った沢田教一カメラマンがニコンを投
》げ捨てる記述が認められる。
昭和のアナログ ニコンページ(別サイト)

 と勝手に文章を変造しているが、「ライカでグッドバイ」原文には「ニコン」としか書かれていない。

 沢田教一が写っている写真を色々見ていると、ニコンFブラックを提げた写真と、ニコノスを提げた写真がある。

Sawadawithnikonf_2 例えば左の写真ではニコンFブラックにオートニッコール135/3.5だろうか、かなり長い望遠レンズをつけているようだ。この領域になるとM型ライカで使うのはかなり大変で、途中から「写りが悪い」「壊れちゃう」などと言っていられなくなったのかも知れない。
 これに関して「世界報道写真展グランプリ受賞後は望遠系はニコンFに切り替えて105ミリ、200ミリなどを付けた」(『サワダ―遺された30,000枚のネガから 青森・ベトナム・カンボジア』P274)という記述がある。『安全への逃避』で世界報道写真展グランプリを受賞したのは1965年であるが、ニコンFを使い始めたのはその直後とは限らないため、使い始めた時期は特定できない。

 この写真を含めどの写真でも間違いなくライカ複数台に加えて1台のニコンFブラックなりニコノスを持っているんで、補助的に使っただけであることは間違いないように思われる。

 このニコンFブラックは高校時代の同級生で写真部長だった藤巻健二から渡され所有していた個体である可能性がある。

》「ライカじゃ望遠レンズを付けられないし、ボディもシルバーでピ
》カピカ光るから戦場じゃ目立って危ない。“こっちのほうが安全だ
》ぞ”って、発売されたばかりのブラックボディのニコンFを持たせ
》て、換わりにライカM3を預かったんです」。
》そう語るのは、現在も青森市内で写真店フォト・フジマキを営むカ
》メラマンの藤巻健二さんだ。(中略)
》 「同級生の間では通称“沢教(さわきょう)”って呼ばれていたん
》ですが、ある時ふらっとやって来て、訊けば“ベトナムに行く”って
言うから驚きました。
一台のライカが駆け抜けてきた記憶。|とうほく唯物論|東北ライブラリー|BBっといー東北(別サイト)

 この「藤巻健二が沢田教一にニコンFブラックを渡し、ライカM3クロームを預かった」話はいつなのだろう。上の部分だけ素直に読むと、沢田教一が最初にベトナムに渡った1965年2月の直前とも思えるが、よく読んで行くと、ピュリッツァー賞を受賞した1966年5月よりも後の話であることが下の部分で分かる。

》ずっと沢教を知っていても当然、彼が戦場に行ってピュリッツァー
賞を受賞するなんて思いもしませんでした。(中略)高校卒業以来、
沢教は一度も同窓会に参加しなかったから、本当にどこか遠い世界
》で、ある期間のうちに起きた出来事という印象がありました
一台のライカが駆け抜けてきた記憶。|とうほく唯物論|東北ライブラリー|BBっといー東北(別サイト)

 沢田教一が最初にベトナムに渡る1965年2月の直前に(同窓会でなく)藤巻健二と個人的に会ってカメラを受け渡した可能性はないのだろうか。
 次の記述から,その可能性もないことが分かる。

》一九六九年十二月十五日、香港からサタ夫人を伴って羽田空港へ降
》りたった沢田は、十八日の夜行列車で青森へ向かった。三年ぶりに
》故郷の地を踏んだカメラマンは、卒業以来初めて十数年ぶりに中学
》校時代の教師、高校時代の同級生に会っている
(『ライカでグッドバイ』P214)

》「沢教が帰ってきたぞ」と集まった青森高校の同級生五人は暮れも
》押し迫る頃、このホテルのバーで卒業以来初めて沢田に会った。こ
》の席でも、沢田は再び戦場へ行くと口にしている。
》「やめろ、やめろ」
》同級生たちは口々に反対した。特に東奥日報写真部を経て、市内に
》カメラ・ショップを出す藤巻健二は「戦争写真はわりにあわないじゃ
》ないか」と強く止めようとした。
(『ライカでグッドバイ』P216)

 すなわち沢田教一は高校卒業後1969年12月まで、藤巻健二を含めて高校同級生の誰にも会っておらず、また沢田教一が高校同級生に「ベトナムに行く」と語ったのは二度目となる1970年1月のベトナム渡りについてということになる。
 そして同時に「藤巻健二が沢田教一にニコンFブラックを渡し、ライカM3クロームを預かった」のは1969年12月らしいと分かる。すなわち1965年に『安全への逃避』を撮影した時には、藤巻健二から渡されたニコンFブラックはまだ持っていなかった。その前に自前で購入したのか。時間軸から言ってあり得ない話ではないが、何も根拠がないし、藤巻健二の発言は「沢田教一はそれまでライカ一辺倒であったが、自分がニコンFを渡してそれでニコンFも使うようになった」というニュアンスがあるように思える。

002_3 1966年01/29に撮影されその年の世界報道写真展グランプリを受賞した『泥まみれの死』についても、ウェブ上に「ニコンFで撮られた」とする説がある。

 しかし1969年12月に藤巻健二から渡されたニコンFブラックはまだ手元にないはずだ。

 逆に、ライカで撮影したとする根拠はある。沢田教一本人が『泥まみれの死』撮影時の状況をUPIの同僚であった赤塚俊介に対して以下のように語っているというのである。

》「僕はあの時90ミリのレンズで戦車を撮ったんだ。APは50ミ
》リで撮っていた。僕の方がAPよりちょっと長かったから良かった
》んだよ」
(『ライカでグッドバイ』P107)

 この話の中で出て来る「戦車」とは実際には「M113装甲兵員輸送車」であるようだが、本筋には影響ない。
 「AP」とはライバル関係にあったAP通信のエディ・アダムスのことである。

 この後、理由に関して実際にはエディ・アダムスがフィルムを紛失し沢田教一が撮影したフィルムしか存在しなかったので、使用したレンズによる差ではなかった、という記述が続くが、沢田本人が「90ミリを使ってこの写真を撮った」という自覚を持っているという趣旨に影響はない。

 90ミリなぞFマウントの純正レンズにはない。ニッコール全部に拡げたとしても大判用の超広角レンズSWニッコール90/4.5、SWニッコール90/4.5S、SWニッコール90/8、SWニッコール90/8Sがあるだけ、しかもこれらは全て沢田教一の死後発売されたものだ。
 90ミリと書いてあるだけでニッコールとは書いてないので、ボディーはニコンFながらレンズが社外品だった可能性はないのか。しかしこの頃社外品では最有力だった三協光機のコムラーは90ミリでなく85ミリだった。タムロンのSP90/2.5マクロ52Bも、ビビターシリーズ1、後のトキナーAT−X90/2.5マクロもまだ存在しない。そもそも今と違って社外品のレンズなぞそれしか買えない貧乏人以外は馬鹿にして使わなかった時代であり、ニコンすら「日本のカメラを使うと壊れちゃうんだよ」と言って忌避しライカを使った人間が日本製社外品レンズを使うとは思えない。ドイツのレンズメーカーが未だやっと地位を築き始めたばかりのニコンFのために社外品レンズを製造した可能性も低い。
 沢田教一が使っていた機材のリストにはズミクロン90/2が入っていた。
 『ライカでグッドバイ』の記述を信じる限り、「ライカを使っていた」と考える方が格段に素直なのである。

 青木冨貴子が『ライカでグッドバイ』に書いたことがデタラメなのだろうか。
 個人的にはそうは思わない。無論全部が全部正しいとも思わないが、「沢田教一が代表作にニコンを使っていた」旨主張する各種の記述より格段に具体的で詳細だからだ。

 そもそも『安全への逃避』がニコンで撮影されたと日本光学工業が主張しているその根拠は何なのだろうか。△11が調べた限りでは何も出てこない。根拠なしに主張したのであれば「でっち上げ」である。
 『ニコンの世界』には1976年発行の初版からこの記述がある。ニコンFの圧倒的な成功を背景に1971年ニコンF2を発売して5年、まさに「世界のニコン」「報道のニコン」の最盛期である。にも拘らず、未だ自社製カメラに心底からの自信と誇りを持てていなかったのであろうか。
 それにしてもラリー・バローズなり石川文洋なり一ノ瀬泰造なり本当に「ニコンを愛用」していた報道カメラマンなぞ当時いくらでもいたはずで、わざわざ沢田教一を引っ張って来たのは本当に理解に苦しむ。

 日本光学工業はその後も同種の話を書いている。

》例えばベトナム戦争ひとつとってみても,ピューリッツァー賞は
》1968年(昭和43),UPI通信の酒井カメラマン,69年
》(昭和44)がAP通信のエドワード・アダムス,さらに70年
》度ロバート・キャパ賞がUPI沢田教一に与えられたが,彼らの
》愛機はいずれもニコンであった。
(『新・ニコンの世界』P37)

 どうでも良いことだが、、、「UPI通信の酒井カメラマン」は酒井淑夫で良いとして、「AP通信のエドワード・アダムス」って誰(^_^;?
 エディ・アダムスのことなんだろうが、エディはエドワードの愛称として使われるものの正式な人名でも使われるし、「愛称だと思い込み正式名称に直そうとした」としても、エドウィンとかエドガーとかエドモンドかも知れないんで、何か根拠がなければ「エディはエドワードの愛称」とは確定できないはずだ。
 ベトナム戦争当時AP通信で働いていたあの有名カメラマンについて他の場所で「エドワード・アダムス」という表記は見たことがない。どこで誰が書いたものを見ても「エディ・アダムス」Eddie Adamsである。

 特別ライカを愛用し日本製カメラを嫌悪していたことが明らかな者について、根拠もなく「ニコンの愛用者だった」というのは問題があると思う。
 まして調べたら調べただけ出て来るあらゆる証拠が「ニコンでなくライカで撮影した」ことを示しており、この現状でその代表作についてどれか1枚でも「ニコンで撮影した」と主張するためには、特別強固な証拠を示す必要があるはずだ。
 もう死んでしまって、訂正する手段を持たない沢田教一に代わって△11はニコンに反論したい。

 沢田教一の愛機はニコンだったか?
 否、沢田教一の愛機はライカだった。

(追記)沢田サタによると、沢田教一自身が書いた『安全への逃避』の撮影データメモにはこうあったという。「ライカMー3、135ミリレンズ、トライX、1/250秒、F11」(『サワダ―遺された30,000枚のネガから 青森・ベトナム・カンボジア』P286)

関連記事:沢田教一が「地面に投げつけ」た「ニコン」は何であったか

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2011年12月31日 (土)

ブローニーフィルムは和製英語、ブローニー判フィルムは混乱を招く誤用

 「ブローニー」はコダックが使っていたカメラブランドである。120を使うカメラばかりではない。最初の「ブローニー」は117フィルムを使用した。116フィルム、122フィルム、124フィルム、127フィルム、616フィルム、、、一番多いのは620フィルムを使用する「ブローニー」である。
 最初に日本に来た「ブローニー」が120を使用するものだったため、なぜだか120フィルムを日本では「ブローニーフィルム」と呼ぶようになってしまった。こういう経緯なので当然英語圏で「Brownie Film」などと注文しても理解されない。「One-Twenty」と注文するのである。

 「ブローニー判フィルム」は、、、こういう用語を作ったり使ったりできる人間の思考回路は理解不能である。一体これは画面サイズ規格の話なのか、ロールフィルム規格の話なのか。
 「120フィルム」「220フィルム」規格のロールフィルムを使用して、「6×4.5cm判」「6×6cm判」「6×7cm判」「6×8cm判」「6×9cm判」「6×12cm判」「6×17cm判」等の規格の画面サイズがあるのだ。
 「6×4.5cm判」だからといって120フィルムを使用するとも限らない、アトム判乾板もある。「6×6cm判」だからといって120フィルムを使用するとも限らない、117フィルムを使用するものもある。「6×9cm判」だからと言って120フィルムを使用するとも限らない、620フィルムを使用するものもある。

 歴史から学ぶべきことがあるとしたら「誤用を放置すれば混乱を招く」ということだと思う。まぁ放置せず殲滅に務めたところでいい加減な気持ちで使う多数派の勢いを止めることは出来ないだろうし、そのうちフィルムなんぞなくなって、写真史学者以外誰も困らないかも知れないが、、、

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2011年12月27日 (火)

フィルムの浮き上がりによるピンぼけ

 この問題は、カメラ業界プロパーの人間にはあまり知られていない。いや、そこまでひどくはないか。昔からカメラ業界でも巻き癖を避けるため、例えばミノルタやマミヤの二眼レフカメラはフィルムを上から下に給送したし、マミヤプレスホルダーは異様に長くなった、、、が、天文業界とはやはり受け止められている深刻さが全然違っていたと思う。

 なぜ天文業界でこの問題が深刻に受け止められていたかと言うと、一般写真より露出時間が長く、かつ要求されるピント精度が厳しいからである。
 天文写真での露出時間は短くても5分、長いと数時間にも及ぶ。巻き上げて直後、1/125秒の間だけ浮き上がらずに済めばOKの一般写真とはわけが違う。
 ピント精度が厳しいのは、被写体に完全点光源があり、全画面ピント位置が無限遠だからである。ほんの少しでもズレると目立つのだ。カメラ業界プロパーの人には全く話題に上らなかったが、天文業界では「オートフォーカスに移行してからの○○○○のカメラは使い物にならないよね」と当然のように言われていたりした。無限遠のピントが、天文写真が要求するレベルでは出ないのだそうだ。

 そういうわけで天文業界では120フィルムは真空吸引が当然、までは行かないまでもかなり一般的な話であった。1980年代、普通の天文ショップがマミヤプレスホルダーやペンタックス6×7の裏蓋を吸引式に改造していたのである。
 120フィルムばかりではない。135フィルムを使用する一眼レフカメラの裏蓋を真空吸引改造しているショップがあったし、「星野写真を撮影する際には巻き上げた後でいちいち巻戻クランプをガムテープで固定すべし」と書いている記事を読んだこともあった。

 特に1986年、ハレー彗星の回帰に当たってかなり大きな問題になった。この回帰は北半球であまり条件が良くなく「次は2061年、俺っち見られるかどうかわかんね」というわけで、条件の良い南の島に向け、初めての海外に旅立った天文ファンが多くいたのである。
 行った先が高温多湿だと、フィルムの巻き癖が普段より強く出る。普段コンテストに入賞している人が「海外へハレー彗星を撮影に行く」ってんで本人も周囲も期待してたら、全部ピンぼけだったなんてことが結構あったらしい。

 しかし、実際には一般写真しか撮らないアマチュアカメラマンも、フィルムの平面性については悩まされていたのではあるまいか。
 △11の親父が撮影した写真が全部ピンぼけだったことがあった。なぜこの時だけ強く出たのかは分からないが、一画面の中でもボケ方にムラがあったこと、またコマごとに大きな差があること、其の次のフィルムでは問題なかったことなどから、機材の問題ではなかったと思う。この時のフィルムだけちょっと装填しっぱなしの時間が長かったのかも知れない。

 初めてデフォルトで真空吸引機構を装備したコンタックスRTSIIIについて「35ミリフィルムではフィルム面の平面性の問題は聞いたことがない」と書いていたプロカメラマンがいるが、これはバンバン撮ってその場で現像に出してしまうからではなかろうか。それこそ機材を評論する人はプロカメラマンであろうから、この問題は見過ごされていた可能性が高い。

 余談になるが、その真空吸引機構を装備したコンタックスRTSIIIを天文ファンが喜んで使ったか。△11はその時代天文業界にいなかったので分からないが、使わなかっただろうと思う。真空吸引機構が必要なら、中古の全機械式カメラを購入してメーカーに点検してもらった上、どこかの天文ショップに吸引改造してもらえばずっと安価に済んだからだ。
 そもそも、天文写真用カメラへの要求は「無限遠でピントが正確に出ること」「シャッターのBが機械式で、気温に関わらずちゃんと開き、閉まること」だけと単純だ。だからコンテストの使用機材はニコマートFTnだのペンタックスSVだのオリンパスOM−1だのがずっと後まで幅を利かせていた。
 それに、カメラ業界プロパーの人でも「コンタックスRTSIIIは、ファインダーを通して見る景色が美しく見えることを優先した結果、マットが素通しに近くてピントが出ない」と言っていた。これが本当なら、鳴り物入りの真空吸引機構なんか何の意味もなかったわけだ。しかし今になって素朴な疑問だが、プラナー85/1.2なんぞで女性ポートレートを撮影していたプロカメラマンはどうやってピントを合わせていたのだろうか。

 皆がデジタルカメラに移行した今、平面性の問題は解消された。撮像素子は温度湿度等あらゆる条件に関係なく平面である。
 デジタルカメラの人気が高い原因の一つは、無論フィルム代や現像代が掛からず、また撮影直後に結果を見られることであることは言うまでもなかろうが、撮影頻度が低くてもピンぼけにならないから、ということも少しは寄与しているのではないかと△11は疑っている。

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2011年9月29日 (木)

大ネジと小ネジ

 日本製品だけ見ていると小ネジばかりで、一般人が大ネジに触れるとすればドイツ製の古いカメラを買ってアダプターを入れる羽目に陥った時くらいだろう。相当特殊かつ厄介なイメージがあるかも知れない。

 しかしヨーロッパの製品を見ていると結構当たり前の存在だ。マンフロットに至っては雲台と三脚の接続は全製品が大ネジで、マンフロット テーブルトライポッド♯209(△11のカメラバッグ)マンフロット ミニボールヘッド♯210B(△11のカメラバッグ)ですら大ネジで接続される。

 △11個人としては、大ネジの方が好きだ。これにはあるカメラ屋店頭での出来事が原体験となっている。
 馴染みのお店に遊びに行ったら、他のお客さんが注文してあったミノルタα用AFアポテレ600/4が来ていて引き渡しをしていたのである。店主は使い方を説明しようとしてレンズと大型三脚をお客さんに出したのだが、その時点で他のお客さんが来て接客に追われてしまい、期せずして△11が接客するような形になった。大型三脚にレンズを載せてお客さんのカメラを装着してファインダーから覗いてみたが、グラグラで使い物にならなさそうだ。大型三脚にも大ネジがあったしレンズにも大ネジ穴があったので、そちらで載せ直してみるとあらびっくり、結構びしっと落ち着いたのだ。
 これ以来「大ネジは凄いなぁ」と思うようになった。実際ここまで重量物を載せなくたって剛性は高い方が良いに決まっているし、別に三脚や雲台が重くなるわけでもないのだ。

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