2018年12月 3日 (月)

ポルコが操作しているのはコンテ通りタイミングレバーだと思う

岡田斗司夫プレミアムブロマガ「『紅の豚』徹底解説:最高にかっこいい!ポルコの愛機サボイア号の発進シーン」
「コンテを見ると『タイミングレバー』と書いてあるんですけど、何のことか僕にはわからなかったんですね」「知ってる人とかに色々と聞いてみると『ミクスチャーレバーじゃない?』と言われました」「その一方で、『これはタイミングレバーだから、本当に燃料の噴射タイミング、エンジンのピストンの中で気筒が動いている時に、どの位置で燃料を送り出すのかを切り替えるための操作だ』と言う人もいるんですよね」

タイミングレバーなら点火時期操作だ。回転数上昇に合わせて点火時期を早める(=進角)。
レシプロのガソリンエンジンでは、燃料を爆発させてピストンを押し下げる。そのピストンが下がる力を、クランクの回転運動に変える。回転するクランクの角度により点火する。爆発するガソリンがピストンをちょうど良いタイミングで押し下げるように点火角度を調整する必要がある。
ガソリンが燃える速度は一定なので、エンジンの回転数が上がった時には早めに点火しないとピストンが行きすぎてしまって、ガソリンの爆発力がちゃんとピストンに伝わらない。点火時期を早めなければならないのだ。
現代的なエンジンでは点火時期はディストリビューターが、さらにはコンピューターが自動的に進角させるようになっている。のでユーザーは「点火時期を変えなきゃならん」なんてことは意識しなくても問題なくなり、分かりにくくなっている。オートマティックトランスミッションしか知らない人に「クラッチ」「ギアレバー」を説明しようにもなかなか分からんであろうのと同じ。点火時期を意識するのはメーカーとチューナーくらいだ。

ミクスチャーレバーの可能性はないな。
コンテにタイミングレバーと書いてあるというし、ポルコは離水でスロットル開とともに操作している。ミクスチャーレバーは高空に上がって空気が薄くなった時にも最適な空気と燃料の比率(空燃比)を保つため燃料を減らすもんだから。

「最初にエンジンをスタートさせた時に煙が出るのは、燃料が濃すぎるからであって、このレバーは、燃料の混合比を少なくして、完全燃焼させるための装置」、、、地上でエンジンスタートした時に燃料が濃すぎるなら、調整の問題だわな。実際この後空戦で苦戦し、要はこの煙は「完調ではない」結果「墜落させられる」伏線だ。

ちなみに空燃比を変える説明で一般に分かりやすいのはチョークレバーだろう。エンジンが冷えている状態から始動する時に空気を減らし相対的に燃料を濃くして始動しやすくするもので、エンジンが温まるまでは濃くしたままだ。

「燃料の噴射タイミング」はこの頃のレシプロエンジンならバルブを開く時期ということになるが、クランクシャフトからカム等で自動的に行われ、手動操作で行われたことはない。市販車のレシプロエンジンでバルブタイミングの操作が行われるようになるのはホンダのVTEC(インテグラ、1989年)とかポルシェのバリオカム(ポルシェ968、1991年)とかから、もちろん自動だ。

「僕は宮崎さんみたいに飛行機マニアじゃないので、FacebookやTwitterで教えてもらったんですけど」

当時の航空機のエンジン形式は自動車と同じなので、問題は飛行機かどうかじゃなく、この頃のエンジンが現在とは進歩の度合いが違うのでこの時代のレシプロエンジンに詳しいかどうか。

だからこそ当時航空エンジン業界にはクライスラー、パッカード、ベントレー、ブリストル、ロールス・ロイス、サンビーム、ネイピア、BMW、ダイムラー・ベンツ、ルノー、三菱、アルファロメオ、フィアット、ピアジオ、イスパノ・スイザ、、、と自動車業界で馴染みの名前が並ぶわけなんだよね。

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2013年1月 8日 (火)

リチャード・ジノリ破産宣告

伊裁判所、陶磁器老舗のリチャードジノリに破産宣告=関係筋(外部リンク)

》[フィレンツェ 7日 ロイター] イタリアのフィレンツェ裁判所は
》7日、同国の老舗陶磁器メーカー、リチャードジノリ<RG9.MI>に破
》産宣告を行った。組合や同社の関係筋が同日、ロイターに対し明らかに
》した。経営困難に陥っていたリチャードジノリはこれまでに身売り先を
》探していたものの、この日の裁判所の決定によって、身売り計画は中止
》に追い込まれる可能性がある。同社は昨年11月、米食器メーカー大手
》レノックス率いるコンソーシアム(企業連合)からの買収案を受け入れ、
》協議を進めていることを明らかにしていた。リチャードジノリからコメ
》ントは得られていない。同社は1735年に創業。325人の従業員を
》抱える。

 う〜ん寂しい。1990年代前半以来買ってないから言う資格はないんだろうけど、、、

 イタリアンフルーツの権利がどうなるのか、ちょっと心配だ。

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2012年12月22日 (土)

マヤ予言

 2012年12/21に世界は破滅するはずだったらしい。

 ハレー彗星にしろノストラダムスにしろジュセリーノにしろ今回にしろ、世界破滅予言なるものを本気で信じた馬鹿者ども、この世から去りなさい。死ぬ覚悟はしたんだろうからそれで結構でしょ。どうせ破滅しなかったことに感謝もせず次の予言で騒ぐだけの人生なんだから、存在するだけまともな人の迷惑。

 温暖化だの核兵器だの自然災害だのとちゃんと現実に破滅因子があるんだから、下らんヨタ話で右往左往する暇があったらそっちに対応しろよ。

関連記事
ベテルギウスの超新星爆発近し、はデマ
神の目ってか(苦笑)

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2012年6月15日 (金)

現状ほぼ理想のカメラ、クールピクスL23

 個人的には、コンパクトデジタルカメラこそはカメラのあるべき姿の一つだと思う。
 例えば△11が普段使っているクールピクスL23(△11のカメラバッグ)である。

 ライカ判換算で28〜140/2.7〜6.8のマクロ機構付きズームレンズ、手ぶれ補正、フラッシュ内蔵、動画撮影可能、、、一般用のカメラで撮影できる範囲をこちらの期待以上に網羅している。
 嬉しいのはこれが単3×2本で動き、ちょっと大容量のカードさえ入れておけばほぼ際限ない枚数をほぼノーコストで撮影でき、撮影した写真をパソコンで管理でき、その上ズボンのポケットに押し込んでおけるサイズに収まっていることだ。
 単3で動くのは重要である。普段はニッケル水素で懐中電灯等と電源が共用できる。大量に生産され流通しているので安価だ。非常時にはどこでも電池を買って撮影できる。今後電池の進歩を享受できる可能性がある。

 クールピクス990とかはよく壊れたものだったが、これはまだ壊れない。実売価格も非常に安価で、新品が¥6kとかで手に入る。

 贅沢を言えば無論完璧ではない。
 まだ撮影まで時間がかかり過ぎる。ピント合わせもシャッターラグももっと速くして欲しい。
 ズームは手動にして欲しい。パワーズームは思った通りに動くとまでは行かない。
 可能ならライカ判換算20〜ミリが欲しい。昨今のデジカメではデータ量は有り余っており、後でどうせ削るだけなので、望遠側はそんなに要らない。後でトリミングする可能性を捨てるだけの電子ズームなんぞ論外だ。

 今でも存在するのかも知れないが、少し前まで「デジカメは本当の意味でのカメラではないので写真作品を撮影するのには向かない」とかいう論旨をぶち上げているカメラマンがいた。
 多分アンタが信奉しているライカも、世に出て来た頃にそう言われていたと思うけどねぇ。
 このカメラが50年後に現役のカメラとして活用されているとは思わない。そこはライカと違うところだ。しかし時代は変わる部分と変わらない部分があるわけなんで、それも当然だ。単に、小型軽量のカメラは今の時代にも需要があるが、カメラの意味合いは耐久消費財から消耗品に変化したということだろう。

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2008年3月11日 (火)

劔岳・点の記、映画化

 このところ
・槍ヶ岳(2004年07/20〜22、記事はこちら
・奥穂高岳(2005年09/02〜04、記事はこちら
・北岳&間ノ岳(2007年08/04〜07、記事はこちら
 と登頂し、懲りたかと思いきや今度はどこに登ろうかと思っている。と言っても前に挙げた3つのように強く「登りたい」という気持ちをかき立てる山はもはやない。

 余談になるが、△11の趣味はどの分野でもそういう風だ。
 昔「カメラボディーはこれ、カメラレンズはこれこれだけ揃えれば他はもう要らない」という話をするとカメラ仲間から「最初はそう思うんだけどそれを買うと他のが欲しくなるんだよなぁ」とからかわれたものである。無論全くそうならなかったとは言えないが、しかしほとんどは最初に作ったリスト通り揃えた段階で欲しいモノはなくなった。
 望遠鏡でも、時計でも、シンセサイザーでも、自動車でも、バイクでも、自転車でも、スキーでもそうだった。極端な話、小学生の頃から「欲しいものリスト」があって、買ったものから消去され、新製品や新しい趣味によって追加はされつつも少しずつリストは短くなり、2000年くらいでリストは終わったのである。
 だから山もそうなのかも知れない。

 今でも欲しいものがないわけではない。それと同じで登りたい山がないわけではない。

 その筆頭が劔岳だ、、、とは言ってもこれは簡単なことではなかろう。槍ヶ岳が峻険だと言ってもそれは槍ヶ岳山荘から山頂までの往復1時間のみであり、それ以外は長時間に渡るとは言え普通の山歩きである。劔岳は登山道のかなりの割合で危険なルートが続くらしいのだ。

 その厳しさを伝える話が陸軍参謀本部陸地測量部、柴崎芳太郎に関する実話である。彼は何度かの失敗の後登頂したが三角点の設置には至らなかった。この話を元に新田次郎が小説「劔岳 点の記」を書いた。

 三角点が設置されていなかったため、劔岳の正確な標高は長らく謎だった。柴崎芳太郎が簡易的な測定で出した標高は2998mであったが、その後の測定により3003mとされていた時期もある。2004年夏ようやく山頂付近に三角点が設置され、劔岳の標高は2998.6mと判明した。柴崎芳太郎の測定が後の測定より正確だったのは、その執念がもたらしたのであろうか。

 そう言えば北岳も2004年に標高が改訂された山であった。以前は3192.4mとされていたがこれは三角点のある場所の標高そのもので、登山者から「南にある岩場の方が高い」という趣旨の指摘があり再調査され3193.2mに改訂された。この辺の事情は北岳の標高に詳しい。
 この0.8mは結構重要である。なぜなら北岳は日本第二位の高峰であり、第三位の奥穂高岳の標高は3190mであって、しかも穂高岳山荘の親父が山頂付近にコンクリートで固めた3m高のケルンを作って「北岳より高いハズだから測定し直せ」と国土地理院にねじ込んだという噂話を聞いたことがあるからだ。「国土地理院は人工物を考慮しないので却下された」というのがこの噂話のオチなのであるが、この噂話が本当だとしたら、数字の大小なんぞで山の価値を測ろうとする人間の浅はかさを露呈したと思うのだ。まして北岳が自然状態で奥穂高岳の人工ケルンより高かったとしたら、、、

 劔岳の正確な標高が出た瞬間も「3000m峰じゃなかったんだ、、、」とがっかりされた関係者の方も多いのではなかろうか、と想像してみたりする。個人的にはそんなことでがっかりするのは止めて欲しい。それは山の素晴らしさを知らない人の思うことである。

 で、久しぶりに「劔岳ってどんなんだったかな、登山した人の体験記を読んでみようか」と検索してびっくり、何だか「劔岳 点の記」が映画化されるらしい。劔岳もしばらく混み合ってダメだねぇきっと(T_T)4949

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2008年2月24日 (日)

引き伸ばしレンズから始めた芸術論

 撮影レンズの善し悪しの話はよく聞くが、引き伸ばしレンズの善し悪しはあまり聞かない。以前どこかで「写真は撮影と引伸で完成するわけで、撮影機材ばかりに情熱を傾けるのは片手落ち、撮影機材を選ぶのと同等の情熱を引伸機材を選ぶ際にも持つべきだ」という意見を読んでいたく納得したことがあるのだが、△11の実体験から来る印象はこれに沿わない。撮影レンズでもあまり差を感じないが引き伸ばしレンズはそれに輪をかけて何でも良い気がする。
 理由を考えるに撮影レンズは三次元を二次元に変換しなければならないわけで、その分難しいのかも知れない。

 無論二次元を二次元にコピーする場合にもデータ欠落は避けられないが、三次元を二次元に変換する場合それと比較にならない大きな量のデータ欠落があるのは想像に難くない。しかもその場合、何と言うか、「検証」が難しいのではないか。

 今介護支援専門員の研修を受けているが、目標を書く場合に必要なことの一つに「検証可能性」がある。誰が見ても「達成された」「達成されていない」という判定が出来るか、ということだ。例えば「歩けるようにできるだけ頑張る」が目標では達成できたのかどうか判定が出来ない。「介助なしで安定して10m歩ける」が目標であれば達成できたのかどうか誰でも確実に判定が出来る。だいたいどこの世界でも目標とはそのように定められるべきものだ。
 レンズ評価の世界では、そのような理由で出て来たのが「解像力」であった。「解像力のあるレンズを使えばシャープに写るだろう」という一種素朴な考えからである。しかしその後、実際には「解像力が高くてコントラストが程々のレンズ」より「解像力がそこそこでもコントラストの高いレンズ」の方がシャープに写る傾向にあることが分かって来て、「コントラスト」が重視されるようになった。しかし今では「シャープさ」そのものがレンズ評価の一要素に過ぎないとされている。
 クラシックレンズのブームのさなかには「このレンズで写すと立体感が出る」なんてことも言われたりしたが、二次元では本来立体感は出せないハズであり、言うなれば芸術の領域である。極論すれば、三次元と二次元は所詮別の物なのだから、「どうしたら正解」というものがないのではなかろうか、と思うのである。

 ここで思いついたのは「データの欠落が大きい場合、芸術性が問われるのではないか」という仮説である。
 データ欠落が少ない場合、もしくは元データの物凄さが認識されていない場合、「元データ」に対して近づける努力が無駄ではないように見える。だから開発者は努力するし、他の価値を探すなど考えもつかない。その場合「元データ」との差が人間の感覚で感知できなくなれば成功である。しかしデータ欠落が大きくどうやっても「元データ」と似ても似つかないコピーしか作れない場合、「元データの復元」などというものは幻想に過ぎない。復元を諦めた時、逆に開発者は自由に自分の創造力を発揮できるわけである。
 例えば昔の絵画の世界では、対象物そのものに見えるリアルな絵が評価された。しかし写真という新技術が出て来て、それと比較して見るとデータ落ちの莫大さが明らかになってしまったのである。ただそれで絵画が無価値になったわけではない。確かに写実的に描けるだけの画家は無価値になったが、芸術としては生き残ったわけだし、写真というものが出て来たからこそ芸術的絵画の価値が鮮明になった。
 オーディオの世界でも昔は「原音再生」ということが言われていた。しかし少しでも注意深く原音を聞いたことのある者にとって原音再生など夢のまた夢であり、それを真面目に語ることは原音を聞いたことがない証明と言っても良い。

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2007年11月17日 (土)

ステッドラー カタログ

0223 ステッドラーの製図用品のカタログ。

 △11は製図するわけではないが、優秀な文房具としてステッドラー 消しゴム(△11のデスクトップ)ステッドラー 水彩色鉛筆(△11のデスクトップ)ステッドラー 児童用色鉛筆(△11のデスクトップ)を愛用している。

 こういうカタログは眺めているだけで楽しい。使いもしないコンパスや雲形定規や製図板まで欲しくなる(^_^;

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2007年10月19日 (金)

秋草

 昼食を食べに出かけたら雨が降っていた。傘をさして歩いて行くと道端に色々な野草が生えている。帰りに何本か切って持って帰って来た。

 最初は猫に見せて遊んでもらおうかと思っていたのだが思い立って昔作った竹筒の花瓶を引っ張り出し、生け花みたいにして玄関に飾ってみた。
Dsc_2414  ウチの玄関はエレベーターから見ると死角になり、ウチは角部屋なのですなわちウチに来る人間しか見えない。
 折角だからニコン D1(△11のカメラバッグ)ニコン Aiニッコール35/1.4S(△11のカメラバッグ)を持ち出し撮影。
 ピントがあまりに薄いとピンぼけの危険性が高くなるのでF2にて絞り優先オート。暗いのでシャッタースピードが1/8とかになってしまいISOをデフォルトの200から800に上げた。それでも1/30、手ぶればかり気にしていたらピントが少し後ピンになって折角の草が前ボケである(T_T)4949
 暇を見てまた撮り直したい。

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2007年10月 1日 (月)

人間は何をどう見、何を見ていないのか

 少し前実家に行ったらテーブルの上に立方体がたくさんあった。現在母は通信による美大生で、その立方体の集まりを斜めから絵に描くのが課題だという。
 立方体の1辺は全て5cmであるが、その辺を全て同じ長さで描くと間違いである。テーブルにある立方体群を斜め上から見ているのであるから、奥にある辺は短く描かなければならないし、下にある辺は短く描かなければならない。遠近法である。

 もう一つの課題「壷を描く(そのデッサンが正しいか見るため壷の写真を添付)」という課題では一度却下を食らったらしい。どう撮影したか聞いたら、大きく撮影するために近距離に寄り広角レンズで撮影したということであった。そんなことをすれば遠近感が誇張され壷が変形するので、絵画と写真だけ見れば「デッサンがおかしい」という話になるだろう。母は自分でそれに気がつき、却下を食らってから「小さくても形が分かれば」と思い離れて撮影し直し、壷が小さく写った写真のみを再提出したら、絵画を直さないまま合格になったという。課題がおかしかったのではなく、添付写真の撮り方がおかしかったのである。

 この2つの課題は、写真撮影では「ブツ撮り」と言われる分野である。

 まずさっきの立方体の話。
 一般には、写真は「見た通り写すのは得意」だと思われていることだろう。その意味では「ブツ撮り」こそは一番簡単な分野のハズだ。しかし、実際にはブツ撮りのカメラマンは職人で、高給取りであるらしい(※1)。
 写真は、立方体群を「奥にある辺は短く描かなければならないし、下にある辺は短く描かなければならない」というようなルールを守って撮影するのは得意であるが、それでも箱を箱らしく自然に撮影するのにもコツがある。広角レンズでも望遠レンズでもそのルールは当然守られているのであるが、その程度が強すぎると人間はそれを「遠近感が誇張されている」と見るのである(※2)。すなわち人間の目がその写真をどう見るか、を念頭に写真は撮影されなければならない。
 ビルの話だともっと分かりやすいかも知れない。普通の人がビルを写しても上すぼまりに写ってしまい、ビルの広告写真には使えない。広告に使う写真は上すぼまりにならず同じ幅に上に伸びている。遠くから撮影すればこういう問題は起きないが、大抵のビルは荒野に一本だけ立っているわけではなく周囲を建物に取り囲まれているので、近距離にて広角レンズで撮影するしかないからだ。こういう場合プロのカメラマンはライズという技を使う。普通のカメラやレンズではライズが出来ないが、超広角レンズを取り付け、水平にカメラを持って撮影し(※3)、ビルの部分を切り取って使うことで全く同じ効果が出せる(※4)。原理も同じである。
 肉眼にはライズ機能はない。トリミング機能はあるが、ズーム的に中心だけを切り取るだけでライズ的トリミングの機能はない。実際ビルを見る時には見上げるはずである。「肉眼+大脳の視覚認識」のチームは上すぼまりのビルを見ながらも「これは上すぼまりでない」という知識から補正しているのである。だからライズしていないビルの写真を見ると「上すぼまりで変だ」と思う(※5)。

 次はさっきの壷の話。
 壷は、肉眼で見ている限りは近くから見ても遠くから見ても同じ形に見える。これも知識から画像が補正されているのであろう。詳細は省くが、これを写真に撮影する時には肉眼が何をどう補正しているのかを慮って、同じ補正をして撮影しないと、出来た写真を肉眼は「不自然」と見る。

 △11の写真の話。
 フジ ベルビア(△11のカメラバッグ)が出た時に「これは凄い」と思ったのは、色が非常に鮮やかなことだった。
 「原色と違う色になってしまう」という批判はあった。これも当然であって、雑誌広告を見てセーターを注文した人が、大きく違う色のセーターが来たら文句を言いたくなるだろう。だからブツ撮りの人は商品の実際の色と写真の色が違えば「違いますよ」とクライアントに却下されてしまう。風景写真の人でも原色を出したい人には合わないだろう。
 しかし△11はこのフィルムを愛用した。美しい景色の色は実際よりも鮮やかに記憶されるので、後で写真を見る場合には実際より鮮やか目に色が出た方が「あぁ、こうだった」と思える場合が多いのである。原色に近い色を出したい人にはプロビアシリーズがあり、そちらを使えば良いことである。人間は見た瞬間だけでなく、さらに記憶の過程でも補正を掛けている。
 「セピア色の景色」等というのが典型である。セピア色になるのは白黒写真の老化で起こる現象であり、人間の記憶では起こらないのであるが、昔の景色が白黒だったりセピア色掛かったように思えたりするのは、脳みそが古い写真から「昔の景色は白黒、またはセピア色掛かった白黒」と学習し補正しているからだ。

 介護の話。
 椅子に座っている人間が立ち上がるにはどうするだろうか。立ち上がる以前に「足を揃えて後ろに引く」「頭(と腕)を前に出す」という動作があるが、これらを意識して行う人はいないので、五体満足で介護に関わっていない人に突然「立ち上がるにはどのような手順が必要ですか」と聞いてこれらの項目はなかなか出て来ないのではなかろうか。認知症の人の中にはこれらが分からず身体的には問題が少ないにも関わらずなかなか立ち上がれない人がいる。
 トイレで排便する時にはどうするだろうか。「トイレのドアを開ける」「中に入る」「振り返ってドアを閉める」「便器の蓋を開ける(ただし便座は上げない)」「ベルトを緩める」「ベルト上端のボタンを外す」「ベルトのファスナーを下げて開く」「ズボンとパンツを下げる」「便座に座る」「踏ん張ってブツを出す」「ロールペーパーを引っ張り、適度の長さになったら切る」「腰を浮かして、ロールペーパーでお尻を拭く」「ロールペーパーを便器内に捨てる」「立ち上がって、さっきと逆の順序で服装を整える」「手を洗う」「トイレのドアを開ける」「外に出る」「振り返ってドアを閉める」等々という複雑な手順が必要なのである。
 これを笑う人がいるかもしれない。しかし五体満足なのに全く出来ない人が現にいる。認知症の人と接すると、普段人間が如何にたくさんのことを「自然に」やってしまっていて何とも思っていないか、ということを思い知る。

 ウチの近所でうどん屋が開店した。女房と2人で「ここって前には何があったっけ?」と話したのだが、ほとんど全く思い出せなかった。「中古自動車屋だったのではなかったか」という結論にはなったが定かではない。今回は一応の結論が出たが、全く何があったのか思い出せない場合もある。無論毎度通っていた場所なので見てはいるが、見ていないのである。

 俵屋宗達の絵の話。
 俵屋宗達の作品の中に、雁が飛んでいる絵がある。その羽根は風を捉えていかにも「飛んでいる」感じに描かれている。それを尾形光琳が模写したが、少し羽根の先が固く俵屋宗達程には「飛んでいる」感がない。
 写真で飛んでいる鳥を撮影すると、大抵の場合はさらに「飛んでいる」感がない。鳥を撮影している人の方が詳しいと思うが、「飛んでいる」感がある瞬間は限られているのである(※6)。
 俵屋宗達が現代に生きていてインタビューできるとすれば彼は「見た通りに描いただけだ」と言うかも知れない。まさにそれはその通りであろうが、それがいかに難題であることか。

 一体自分に何がどう見えているのか、それすらも人間は自覚せずに生きているのである。

※1昔のフィルム時代の話であり、今はどうか知らない。

※2正確に言えば、問題は「望遠レンズか広角レンズか」ではなく、撮影場所と対象の距離である。距離が短ければ対象物の全体を入れるために広角レンズが必要になり、遠ければある程度大きく写すために望遠レンズが欲しくなるだけのことだ。広角レンズでも米粒のようにしか写らないことを気にせず遠くから撮影すれば遠近感は誇張されない。望遠レンズでも近距離で写せば遠近感は誇張される。ただし望遠レンズの至近距離はたいてい短いのでピントが合うかどうか、一般に無限遠基準で設計されているレンズが近距離でどれだけ性能低下するか、その画面を見て人間の目が遠近感を感じられる程の範囲が写るか、等他の問題は出ると思うが、、、

※3この時当該ビルは画面の中心から上に伸びているため画面の半分は全く対象物を写していない。

※4昔のフィルム時代の話である。現在では上すぼまりに構わずデジカメで撮影し画像処理にて修正していると聞いた。

※5実際には問題はもう少し複雑である。多分友人が撮影したビルの写真が上すぼまりでもほとんどの人は違和感を感じないだろう。ただ広告に載っているビルの写真が上すぼまりだったら「プロっぽくない」と違和感を感じるだろうし、少なくともビルの写真を依頼するクライアントは間違いなくそれを却下する。「ビルは上すぼまりであってはならない」が建築写真のプロの世界での約束事なのである。

※6素人の想像であるが、鳥の羽根が上下動の上端から下がり始める瞬間だろうか。

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2007年5月 8日 (火)

究極の時計

 Nikator氏が書いていた時計百話(5)(mixi、マイミク限定)を読んで、随分時間は掛かったが自分なりの「究極の時計」観をまとめてみた。

 究極の時計、と言われてまず一つ考えつくのはGショックの電波時計かつタフソーラーモデルである。Gショックなので耐ショック&完全防水。電波を受けて時刻修正するので誤差は原子時計に準じる。太陽電池で発電するので機械のオーバーホールや電池交換の手間なし。
 ロレックスが高い評価を受けたのは精度の高い機械に自動巻を装備し完全防水ケースに収めた「手間の掛からん時計」だったからである。そういう意味では現代のGショックはロレックスの正常進化した姿と言える。ブレゲひげが電波時計機能に、パーペチュアルがタフソーラーに、オイスターケースがGショックに移行したわけである。
 、、、というのは一つの正解であるが、この結論の何と味気ないことであろうか。無論「味気」等と言っていられない現場もあるだろうが、趣味で時計に接する人間にとってはこの「味気」こそが全てだとも言える。
 「究極」を語る場合、その辺の「大人のお約束」が当然の前提になっているわけで、「究極を言うならGショックで決まり」等と本当のことを言い立てるのは子供である。いやそもそも「究極」等という子供の概念は大人にそぐわないのであって、この記事はお題こそ「究極の時計」と謳ってはいても全くお題とは関係ないことを書こうとしているとも言える。

 余談になるが、インターネットにどうやってそういう「大人のお約束」みたいなものを定着させるのか、というのはこれからのインターネットにとって大きなテーマであろう。書き手の「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により(日本国憲法第14条)」および年齢、知的程度により差別されないのがパソコン通信及びインターネットのメリットであり、書き手はただその記述が正しいか誤りかにより判断される。子供を排除するのはそれも却ってインターネットの効能を損なうだろうし、また不可能でもあろう。しかしそれに乗じて何も分かっていない子供が大きな顔をして荒らすのは折角のインターネットの効能を損なう行為である。

 さて△11が究極の時計と言われて考えつく時計と言えば、まずすでに手持ちのインターナショナル ポケットウォッチ(△11の時計)。機械式なのに計測誤差は月差15秒以下。デザインは無表情でない程度のシンプル。搭載しているCal67は高級キャリバーではないという。
 腕時計では未入手のパテック・フィリップRef2451。ダイヤルは「12、3、9のみアラビア文字」、針はリーフのタイプが好きだ。シェルマンのオンラインショップの画像(別サイト)がまさにほぼそのもの。巷間パテック・フィリップで究極と言えばトロピカルだのCal27ー460ATだの果ては「キャリバー89」だの、という話になるのかも知れないが、△11はその辺にあまり興味がない。Ref2451が積んでいる機械はCal10ー200でパテック・フィリップとしては格別なものではない普通の手巻きである。
 この2つは「究極の時計」というお題からは外れるのかも知れないが、△11にとって究極とはそういう形なのである。魅力を感じるのが「ベタ普通(例:セイコー5)よりかなり凄い普通」「必然性を持たない製品には魅力を感じない」という感覚なので仕方がない。コンプリケーションには必然性がない。

 時計なんて、現代社会にはすでに必然性はないわけである。携帯電話の時間を見れば良い。だから時計の分野では「味気」が全てだ。もう少し広く「センチメンタル・バリュー」と言い換えても良いが、そういうものに説得力だの整合性だのは求められない。そういう分野に本気で「究極の」等という概念を持ち込むのは馬鹿馬鹿しい。△11に「究極に興味がない」という究極観も含めてそれぞれの人にそれぞれの究極観があるのだ。

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