少し前実家に行ったらテーブルの上に立方体がたくさんあった。現在母は通信による美大生で、その立方体の集まりを斜めから絵に描くのが課題だという。
立方体の1辺は全て5cmであるが、その辺を全て同じ長さで描くと間違いである。テーブルにある立方体群を斜め上から見ているのであるから、奥にある辺は短く描かなければならないし、下にある辺は短く描かなければならない。遠近法である。
もう一つの課題「壷を描く(そのデッサンが正しいか見るため壷の写真を添付)」という課題では一度却下を食らったらしい。どう撮影したか聞いたら、大きく撮影するために近距離に寄り広角レンズで撮影したということであった。そんなことをすれば遠近感が誇張され壷が変形するので、絵画と写真だけ見れば「デッサンがおかしい」という話になるだろう。母は自分でそれに気がつき、却下を食らってから「小さくても形が分かれば」と思い離れて撮影し直し、壷が小さく写った写真のみを再提出したら、絵画を直さないまま合格になったという。課題がおかしかったのではなく、添付写真の撮り方がおかしかったのである。
この2つの課題は、写真撮影では「ブツ撮り」と言われる分野である。
まずさっきの立方体の話。
一般には、写真は「見た通り写すのは得意」だと思われていることだろう。その意味では「ブツ撮り」こそは一番簡単な分野のハズだ。しかし、実際にはブツ撮りのカメラマンは職人で、高給取りであるらしい(※1)。
写真は、立方体群を「奥にある辺は短く描かなければならないし、下にある辺は短く描かなければならない」というようなルールを守って撮影するのは得意であるが、それでも箱を箱らしく自然に撮影するのにもコツがある。広角レンズでも望遠レンズでもそのルールは当然守られているのであるが、その程度が強すぎると人間はそれを「遠近感が誇張されている」と見るのである(※2)。すなわち人間の目がその写真をどう見るか、を念頭に写真は撮影されなければならない。
ビルの話だともっと分かりやすいかも知れない。普通の人がビルを写しても上すぼまりに写ってしまい、ビルの広告写真には使えない。広告に使う写真は上すぼまりにならず同じ幅に上に伸びている。遠くから撮影すればこういう問題は起きないが、大抵のビルは荒野に一本だけ立っているわけではなく周囲を建物に取り囲まれているので、近距離にて広角レンズで撮影するしかないからだ。こういう場合プロのカメラマンはライズという技を使う。普通のカメラやレンズではライズが出来ないが、超広角レンズを取り付け、水平にカメラを持って撮影し(※3)、ビルの部分を切り取って使うことで全く同じ効果が出せる(※4)。原理も同じである。
肉眼にはライズ機能はない。トリミング機能はあるが、ズーム的に中心だけを切り取るだけでライズ的トリミングの機能はない。実際ビルを見る時には見上げるはずである。「肉眼+大脳の視覚認識」のチームは上すぼまりのビルを見ながらも「これは上すぼまりでない」という知識から補正しているのである。だからライズしていないビルの写真を見ると「上すぼまりで変だ」と思う(※5)。
次はさっきの壷の話。
壷は、肉眼で見ている限りは近くから見ても遠くから見ても同じ形に見える。これも知識から画像が補正されているのであろう。詳細は省くが、これを写真に撮影する時には肉眼が何をどう補正しているのかを慮って、同じ補正をして撮影しないと、出来た写真を肉眼は「不自然」と見る。
△11の写真の話。
フジ ベルビア(△11のカメラバッグ)が出た時に「これは凄い」と思ったのは、色が非常に鮮やかなことだった。
「原色と違う色になってしまう」という批判はあった。これも当然であって、雑誌広告を見てセーターを注文した人が、大きく違う色のセーターが来たら文句を言いたくなるだろう。だからブツ撮りの人は商品の実際の色と写真の色が違えば「違いますよ」とクライアントに却下されてしまう。風景写真の人でも原色を出したい人には合わないだろう。
しかし△11はこのフィルムを愛用した。美しい景色の色は実際よりも鮮やかに記憶されるので、後で写真を見る場合には実際より鮮やか目に色が出た方が「あぁ、こうだった」と思える場合が多いのである。原色に近い色を出したい人にはプロビアシリーズがあり、そちらを使えば良いことである。人間は見た瞬間だけでなく、さらに記憶の過程でも補正を掛けている。
「セピア色の景色」等というのが典型である。セピア色になるのは白黒写真の老化で起こる現象であり、人間の記憶では起こらないのであるが、昔の景色が白黒だったりセピア色掛かったように思えたりするのは、脳みそが古い写真から「昔の景色は白黒、またはセピア色掛かった白黒」と学習し補正しているからだ。
介護の話。
椅子に座っている人間が立ち上がるにはどうするだろうか。立ち上がる以前に「足を揃えて後ろに引く」「頭(と腕)を前に出す」という動作があるが、これらを意識して行う人はいないので、五体満足で介護に関わっていない人に突然「立ち上がるにはどのような手順が必要ですか」と聞いてこれらの項目はなかなか出て来ないのではなかろうか。認知症の人の中にはこれらが分からず身体的には問題が少ないにも関わらずなかなか立ち上がれない人がいる。
トイレで排便する時にはどうするだろうか。「トイレのドアを開ける」「中に入る」「振り返ってドアを閉める」「便器の蓋を開ける(ただし便座は上げない)」「ベルトを緩める」「ベルト上端のボタンを外す」「ベルトのファスナーを下げて開く」「ズボンとパンツを下げる」「便座に座る」「踏ん張ってブツを出す」「ロールペーパーを引っ張り、適度の長さになったら切る」「腰を浮かして、ロールペーパーでお尻を拭く」「ロールペーパーを便器内に捨てる」「立ち上がって、さっきと逆の順序で服装を整える」「手を洗う」「トイレのドアを開ける」「外に出る」「振り返ってドアを閉める」等々という複雑な手順が必要なのである。
これを笑う人がいるかもしれない。しかし五体満足なのに全く出来ない人が現にいる。認知症の人と接すると、普段人間が如何にたくさんのことを「自然に」やってしまっていて何とも思っていないか、ということを思い知る。
ウチの近所でうどん屋が開店した。女房と2人で「ここって前には何があったっけ?」と話したのだが、ほとんど全く思い出せなかった。「中古自動車屋だったのではなかったか」という結論にはなったが定かではない。今回は一応の結論が出たが、全く何があったのか思い出せない場合もある。無論毎度通っていた場所なので見てはいるが、見ていないのである。
俵屋宗達の絵の話。
俵屋宗達の作品の中に、雁が飛んでいる絵がある。その羽根は風を捉えていかにも「飛んでいる」感じに描かれている。それを尾形光琳が模写したが、少し羽根の先が固く俵屋宗達程には「飛んでいる」感がない。
写真で飛んでいる鳥を撮影すると、大抵の場合はさらに「飛んでいる」感がない。鳥を撮影している人の方が詳しいと思うが、「飛んでいる」感がある瞬間は限られているのである(※6)。
俵屋宗達が現代に生きていてインタビューできるとすれば彼は「見た通りに描いただけだ」と言うかも知れない。まさにそれはその通りであろうが、それがいかに難題であることか。
一体自分に何がどう見えているのか、それすらも人間は自覚せずに生きているのである。
※1昔のフィルム時代の話であり、今はどうか知らない。
※2正確に言えば、問題は「望遠レンズか広角レンズか」ではなく、撮影場所と対象の距離である。距離が短ければ対象物の全体を入れるために広角レンズが必要になり、遠ければある程度大きく写すために望遠レンズが欲しくなるだけのことだ。広角レンズでも米粒のようにしか写らないことを気にせず遠くから撮影すれば遠近感は誇張されない。望遠レンズでも近距離で写せば遠近感は誇張される。ただし望遠レンズの至近距離はたいてい短いのでピントが合うかどうか、一般に無限遠基準で設計されているレンズが近距離でどれだけ性能低下するか、その画面を見て人間の目が遠近感を感じられる程の範囲が写るか、等他の問題は出ると思うが、、、
※3この時当該ビルは画面の中心から上に伸びているため画面の半分は全く対象物を写していない。
※4昔のフィルム時代の話である。現在では上すぼまりに構わずデジカメで撮影し画像処理にて修正していると聞いた。
※5実際には問題はもう少し複雑である。多分友人が撮影したビルの写真が上すぼまりでもほとんどの人は違和感を感じないだろう。ただ広告に載っているビルの写真が上すぼまりだったら「プロっぽくない」と違和感を感じるだろうし、少なくともビルの写真を依頼するクライアントは間違いなくそれを却下する。「ビルは上すぼまりであってはならない」が建築写真のプロの世界での約束事なのである。
※6素人の想像であるが、鳥の羽根が上下動の上端から下がり始める瞬間だろうか。
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