2012年4月13日 (金)

「沢田教一はニコンを愛用した」は嘘

 親父がニコンFEを購入した時に貰えたと思われる冊子ニコンの世界は小学生の頃の△11の愛読書であった。

 この本がニコンに対する憧れとか欲望を増殖させたことは間違いない。しかし、ニコンが世界最高のカメラだと思えるようになったかと言うとそうではなかった。
 一つは何人もの有名カメラマンが連ねた寄稿であった。ニコンF以後使い始めたであろう若手のカメラマンにはそんな空気はないのだが、ニコンS時代を知る年配のカメラマンの書いているのを読むと「本当はライカやコンタックスが欲しかったけど、、、ニコンは安かった割に使えたねぇ」としか読めなかった。実際そう書いていたのだろうし。

 もう一つが今回話題にする沢田教一の件である。このような記述がある。

》1971年度(ママ)のピューリッツァー賞も、ニコンによる作品
》に授与された。ベトナム戦線において取材にあたったUPI通信の
》沢田カメラマンの『安全への逃避』という力作である」
(『ニコンの世界』P18)

001_2  実際には沢田教一が報道写真部門でピューリッツァー賞を受賞したのは1966年であり、また受賞したのは『安全への逃避』単体でなく1965年に撮影された28点のベトナム写真集である。が、それらは横に置くとして。

 フリージャーナリストの青木冨貴子はこの日本光学工業の主張と真っ向から矛盾する話を書いている。

》(△11注:数少ない日本人の友人である上野義良が日本製カメラ
》のセールスでサイゴンに来たが)いくら勧めても沢田は決して日本
》のカメラを使おうとしなかった。
》「日本のカメラは写りが悪い」
》「日本のカメラを使うと壊れちゃうんだよ」
》といつもケチョンケチョンにけなすのだった。
》沢田にとって良いカメラとは、まず第一に壊れないカメラのことだっ
》た。戦場での写真には、ライカとともにニコンを一台下げているも
》のがある。ジャングルで取材中に、このニコンが壊れて使えなくなっ
》たことがあった。
》「こいつのおかげで、今のショットを撮り逃がしたんだ」
》ニコンを地面に投げつけながら、珍しく沢田は声を荒げて怒った。
》いらい、沢田のライカ信奉は、ますます確たるものになった。
(『ライカでグッドバイ』P155)

》世界報道写真展大賞を初めて受賞した時、ハーグの取材陣は競って
》「どんなカメラを使っているのか」と質問した。当然、彼らは日本
》人カメラマンの口から、ニコン、キヤノンといった答えが返ってく
》ると期待した。が、沢田は決まって「ライカ」と言うのだった。喜
》んだライツ社は、プロット・タイプのカメラやレンズの現場テスト
》を頼むようになっていった。
(『ライカでグッドバイ』P157)

 日本製一眼レフカメラが報道カメラの主流になったのは一般に東京オリンピックが行なわれた1964年頃と言われているから、沢田教一が最初にベトナムに渡った1965年2月当時すでに報道カメラの主流は日本製一眼レフカメラになっていた。まして日本人。当然使っていると想定されて然るべき日本製カメラを沢田教一が使用したがらなかったことは、当時有名な事実だったのだ。

 しかし全く使用しなかったら「ニコンを地面に投げつけ」ることもできないわけで、全く使用しなかったわけではないことも同時に分かる。

 このニコンについて三宝カメラは

》青木富貴子著「ライカでグッドバイ」には、肝心のシャッターチャ
》ンスでニコンFが故障し、怒った沢田教一カメラマンがニコンを投
》げ捨てる記述が認められる。
昭和のアナログ ニコンページ(別サイト)

 と勝手に文章を変造しているが、「ライカでグッドバイ」原文には「ニコン」としか書かれていない。

 沢田教一が写っている写真を色々見ていると、ニコンFブラックを提げた写真と、ニコノスを提げた写真がある。

Sawadawithnikonf_2 例えば左の写真ではニコンFブラックにオートニッコール135/3.5だろうか、かなり長い望遠レンズをつけているようだ。この領域になるとM型ライカで使うのはかなり大変で、途中から「写りが悪い」「壊れちゃう」などと言っていられなくなったのかも知れない。
 これに関して「世界報道写真展グランプリ受賞後は望遠系はニコンFに切り替えて105ミリ、200ミリなどを付けた」(『サワダ―遺された30,000枚のネガから 青森・ベトナム・カンボジア』P274)という記述がある。『安全への逃避』で世界報道写真展グランプリを受賞したのは1965年であるが、ニコンFを使い始めたのはその直後とは限らないため、使い始めた時期は特定できない。

 この写真を含めどの写真でも間違いなくライカ複数台に加えて1台のニコンFブラックなりニコノスを持っているんで、補助的に使っただけであることは間違いないように思われる。

 このニコンFブラックは高校時代の同級生で写真部長だった藤巻健二から渡され所有していた個体である可能性がある。

》「ライカじゃ望遠レンズを付けられないし、ボディもシルバーでピ
》カピカ光るから戦場じゃ目立って危ない。“こっちのほうが安全だ
》ぞ”って、発売されたばかりのブラックボディのニコンFを持たせ
》て、換わりにライカM3を預かったんです」。
》そう語るのは、現在も青森市内で写真店フォト・フジマキを営むカ
》メラマンの藤巻健二さんだ。(中略)
》 「同級生の間では通称“沢教(さわきょう)”って呼ばれていたん
》ですが、ある時ふらっとやって来て、訊けば“ベトナムに行く”って
言うから驚きました。
一台のライカが駆け抜けてきた記憶。|とうほく唯物論|東北ライブラリー|BBっといー東北(別サイト)

 この「藤巻健二が沢田教一にニコンFブラックを渡し、ライカM3クロームを預かった」話はいつなのだろう。上の部分だけ素直に読むと、沢田教一が最初にベトナムに渡った1965年2月の直前とも思えるが、よく読んで行くと、ピュリッツァー賞を受賞した1966年5月よりも後の話であることが下の部分で分かる。

》ずっと沢教を知っていても当然、彼が戦場に行ってピュリッツァー
賞を受賞するなんて思いもしませんでした。(中略)高校卒業以来、
沢教は一度も同窓会に参加しなかったから、本当にどこか遠い世界
》で、ある期間のうちに起きた出来事という印象がありました
一台のライカが駆け抜けてきた記憶。|とうほく唯物論|東北ライブラリー|BBっといー東北(別サイト)

 沢田教一が最初にベトナムに渡る1965年2月の直前に(同窓会でなく)藤巻健二と個人的に会ってカメラを受け渡した可能性はないのだろうか。
 次の記述から,その可能性もないことが分かる。

》一九六九年十二月十五日、香港からサタ夫人を伴って羽田空港へ降
》りたった沢田は、十八日の夜行列車で青森へ向かった。三年ぶりに
》故郷の地を踏んだカメラマンは、卒業以来初めて十数年ぶりに中学
》校時代の教師、高校時代の同級生に会っている
(『ライカでグッドバイ』P214)

》「沢教が帰ってきたぞ」と集まった青森高校の同級生五人は暮れも
》押し迫る頃、このホテルのバーで卒業以来初めて沢田に会った。こ
》の席でも、沢田は再び戦場へ行くと口にしている。
》「やめろ、やめろ」
》同級生たちは口々に反対した。特に東奥日報写真部を経て、市内に
》カメラ・ショップを出す藤巻健二は「戦争写真はわりにあわないじゃ
》ないか」と強く止めようとした。
(『ライカでグッドバイ』P216)

 すなわち沢田教一は高校卒業後1969年12月まで、藤巻健二を含めて高校同級生の誰にも会っておらず、また沢田教一が高校同級生に「ベトナムに行く」と語ったのは二度目となる1970年1月のベトナム渡りについてということになる。
 そして同時に「藤巻健二が沢田教一にニコンFブラックを渡し、ライカM3クロームを預かった」のは1969年12月らしいと分かる。すなわち1965年に『安全への逃避』を撮影した時には、藤巻健二から渡されたニコンFブラックはまだ持っていなかった。その前に自前で購入したのか。時間軸から言ってあり得ない話ではないが、何も根拠がないし、藤巻健二の発言は「沢田教一はそれまでライカ一辺倒であったが、自分がニコンFを渡してそれでニコンFも使うようになった」というニュアンスがあるように思える。

002_3 1966年01/29に撮影されその年の世界報道写真展グランプリを受賞した『泥まみれの死』についても、ウェブ上に「ニコンFで撮られた」とする説がある。

 しかし1969年12月に藤巻健二から渡されたニコンFブラックはまだ手元にないはずだ。

 逆に、ライカで撮影したとする根拠はある。沢田教一本人が『泥まみれの死』撮影時の状況をUPIの同僚であった赤塚俊介に対して以下のように語っているというのである。

》「僕はあの時90ミリのレンズで戦車を撮ったんだ。APは50ミ
》リで撮っていた。僕の方がAPよりちょっと長かったから良かった
》んだよ」
(『ライカでグッドバイ』P107)

 この話の中で出て来る「戦車」とは実際には「M113装甲兵員輸送車」であるようだが、本筋には影響ない。
 「AP」とはライバル関係にあったAP通信のエディ・アダムスのことである。

 この後、理由に関して実際にはエディ・アダムスがフィルムを紛失し沢田教一が撮影したフィルムしか存在しなかったので、使用したレンズによる差ではなかった、という記述が続くが、沢田本人が「90ミリを使ってこの写真を撮った」という自覚を持っているという趣旨に影響はない。

 90ミリなぞFマウントの純正レンズにはない。ニッコール全部に拡げたとしても大判用の超広角レンズSWニッコール90/4.5、SWニッコール90/4.5S、SWニッコール90/8、SWニッコール90/8Sがあるだけ、しかもこれらは全て沢田教一の死後発売されたものだ。
 90ミリと書いてあるだけでニッコールとは書いてないので、ボディーはニコンFながらレンズが社外品だった可能性はないのか。しかしこの頃社外品では最有力だった三協光機のコムラーは90ミリでなく85ミリだった。タムロンのSP90/2.5マクロ52Bも、ビビターシリーズ1、後のトキナーAT−X90/2.5マクロもまだ存在しない。そもそも今と違って社外品のレンズなぞそれしか買えない貧乏人以外は馬鹿にして使わなかった時代であり、ニコンすら「日本のカメラを使うと壊れちゃうんだよ」と言って忌避しライカを使った人間が日本製社外品レンズを使うとは思えない。ドイツのレンズメーカーが未だやっと地位を築き始めたばかりのニコンFのために社外品レンズを製造した可能性も低い。
 沢田教一が使っていた機材のリストにはズミクロン90/2が入っていた。
 『ライカでグッドバイ』の記述を信じる限り、「ライカを使っていた」と考える方が格段に素直なのである。

 青木冨貴子が『ライカでグッドバイ』に書いたことがデタラメなのだろうか。
 個人的にはそうは思わない。無論全部が全部正しいとも思わないが、「沢田教一が代表作にニコンを使っていた」旨主張する各種の記述より格段に具体的で詳細だからだ。

 そもそも『安全への逃避』がニコンで撮影されたと日本光学工業が主張しているその根拠は何なのだろうか。△11が調べた限りでは何も出てこない。根拠なしに主張したのであれば「でっち上げ」である。
 『ニコンの世界』には1976年発行の初版からこの記述がある。ニコンFの圧倒的な成功を背景に1971年ニコンF2を発売して5年、まさに「世界のニコン」「報道のニコン」の最盛期である。にも拘らず、未だ自社製カメラに心底からの自信と誇りを持てていなかったのであろうか。
 それにしてもラリー・バローズなり石川文洋なり一ノ瀬泰造なり本当に「ニコンを愛用」していた報道カメラマンなぞ当時いくらでもいたはずで、わざわざ沢田教一を引っ張って来たのは本当に理解に苦しむ。

 日本光学工業はその後も同種の話を書いている。

》例えばベトナム戦争ひとつとってみても,ピューリッツァー賞は
》1968年(昭和43),UPI通信の酒井カメラマン,69年
》(昭和44)がAP通信のエドワード・アダムス,さらに70年
》度ロバート・キャパ賞がUPI沢田教一に与えられたが,彼らの
》愛機はいずれもニコンであった。
(『新・ニコンの世界』P37)

 どうでも良いことだが、、、「UPI通信の酒井カメラマン」は酒井淑夫で良いとして、「AP通信のエドワード・アダムス」って誰(^_^;?
 エディ・アダムスのことなんだろうが、エディはエドワードの愛称として使われるものの正式な人名でも使われるし、「愛称だと思い込み正式名称に直そうとした」としても、エドウィンとかエドガーとかエドモンドかも知れないんで、何か根拠がなければ「エディはエドワードの愛称」とは確定できないはずだ。
 ベトナム戦争当時AP通信で働いていたあの有名カメラマンについて他の場所で「エドワード・アダムス」という表記は見たことがない。どこで誰が書いたものを見ても「エディ・アダムス」Eddie Adamsである。

 特別ライカを愛用し日本製カメラを嫌悪していたことが明らかな者について、根拠もなく「ニコンの愛用者だった」というのは問題があると思う。
 まして調べたら調べただけ出て来るあらゆる証拠が「ニコンでなくライカで撮影した」ことを示しており、この現状でその代表作についてどれか1枚でも「ニコンで撮影した」と主張するためには、特別強固な証拠を示す必要があるはずだ。
 もう死んでしまって、訂正する手段を持たない沢田教一に代わって△11はニコンに反論したい。

 沢田教一の愛機はニコンだったか?
 否、沢田教一の愛機はライカだった。

(追記)沢田サタによると、沢田教一自身が書いた『安全への逃避』の撮影データメモにはこうあったという。「ライカMー3、135ミリレンズ、トライX、1/250秒、F11」(『サワダ―遺された30,000枚のネガから 青森・ベトナム・カンボジア』P286)

関連記事:沢田教一が「地面に投げつけ」た「ニコン」は何であったか

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2011年9月25日 (日)

2011年版ポルシェのカタログを眺める

 △11がポルシェ924Sクラブスポーツ(△11の乗り物)について語る時、気に入っている旨の比喩として、時々「何でも好きなポルシェの新車と交換してやると言われても交換しない」と表現することがある。
 なので、本当にそうであるのか時々は確認する必要があろう。というわけでこの前貰って来た2011年5月版のカタログを引っ張り出して来た。

 ポルシェのラインナップは大きく分けて

・パナメーラ
・カイエン
・911
・ボクスター/ケイマン

 の4つだ。ここから魅力を感じる車種を挙げてみた。

・パナメーラ
 パナメーラSハイブリッドは燃費良さそう。2994cc333psV6スーパーチャージャーエンジン+47psモーター。でも重量2020kgって重すぎでしょ。まぁコンセプトからすれば仕方ないのか。1483万円、、、ってコストがハイブリッドの目的じゃないけどガソリン代払った方が安いわな。
 パナメーラ4も4WDで魅力的かな。3604cc300psV6エンジン。重量1870kg。1066万円。
 このシリーズ最軽量のパナメーラ6MTでも重量1800kg。933万円。
 軸距2920mmは何とかならなかったものか、、、ってならなかったからその数値なんだよね。
 パナメーラS、パナメーラ4S、パナメーラターボ、パナメーラターボSは4806ccV8エンジン。ちなみに400ps、400ps、500ps、550ps。それ自体が悪いわけではないが、小排気量スポーツカーを作りたくてオーストロ・ダイムラーのトップと衝突し退社に至ったフェルディナント・ポルシェが見たら何と言うであろうか。まぁポルシェ928だって初期4474cc、終期5397ccだったんだけどさ。
 「フロントエンジン」と聞いただけの段階では「良さそうだなぁ」と思ったのだけれど、数値を見て行くと萎えるシリーズだ。2ドア版も噂され「928の再来」等と言われているが、△11が欲しくなる内容になるとは到底思えない。今の思考回路だと928より924だもんねぇ。

・カイエン
 やっぱり目を引くのはカイエンSハイブリッド。2994cc333psV6スーパーチャージャーエンジン+47psモーター。重量2270kg。1102万円。
 このシリーズは一番軽量なカイエン6MTでも重量2060kg。3604cc300psV6エンジン。755万円。
 軸距2895mm、長いねぇ。全高1710mm、高いねぇ。いやいや△11のコンセプトに合わないてぇだけなので、△11が善し悪しを語るつもりはない。こういう車なんだな。

 カイエンと比較するとパナメーラって高価。まぁこれは話が逆で、フォルクスワーゲントゥアレグから基本構成を借りて来れたカイエンが安価に上がっているのだろう。

・911
 軸距2350mm。短いのは良いけど、リアエンジンにした理由が個人的には理解できない。1970年代までの「過去の自動車」としては別の評価ができるが、それならコンピューターで制御しまくっている新車よりシンガーポルシェ買うぞぃ。20万ドル、、、ということは$1=¥77として1540万円か。リビルドなので今回のお題からは外れる。

・ボクスター/ケイマン
 このシリーズが一番素直に選べる。軸距2415mm、911よりちょっと長いんですな。2人乗りだがミッドシップのせいか。
 まず目につくのは軽量なケイマンR。6速マニュアルもあるけど△11が選ぶなら7速PDKかな。3436cc330psF6エンジン。重量1370kg。1027万円、、、高価だと言っても911で一番安価な911カレラ6MTの1086万円よりは安価なわけで、この意味でも絶対911はないな。それとこの価格は軽量化のコストであり、△11みたく躊躇なくエアコンをつけちゃうような人間には勿体ない気もする。色もペリドットメタリックというあまり好きになれない緑色だけみたい。
 となると次に出てくるのはケイマンS。3436cc320psF6エンジン。7速PDKで重量1420kg。801万円。
 ボクスタースパイダーも良いけど、個人的に屋根固定の方が好み。ただ重量1340kgはケイマンSに対しアドバンテージとなる。3436cc320psF6エンジン。7速PDKとして918万円は軽量化の費用が上乗せされているのだろう。
 どうしても特殊なモデルに目が行くけど、本当はそういう選び方は間違っているよね。カタログ上で比較すると見劣りするケイマンだって本当は充分に特殊なモデルなわけで、、、
 ケイマンだったら2892cc265psF6エンジン。7速PDKで重量1410kg。651万円。

 性格上「人の金だからってどうでも良い」というわけには行かないんで、「何でも好きな新車と交換してやると言われた仮定にしちゃあ価格を気にしたりして貧乏臭いな」という突っ込みはなしね。

 というわけで残った候補

・ケイマンS
・ケイマン
・ボクスタースパイダー

 これらを見てもポルシェ924Sクラブスポーツより魅力的と感じられないので、「何でも好きな新車と交換してやると言われても交換しない」というのは本当であることが確認された。2479cc160psL4エンジン。重量1230kg。軸距2400mm。中古で30万円。

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2011年4月28日 (木)

ツァイス・イコン コンタレックスカタログ

Ccf20110428_00000 英語。コンタレックスSEが主力なので最終期に当たる。各種アクセサリーがあって何でもできる、という感じだが大きさ重さは物凄いだろう。そしてお値段はそれ以上に物凄かっただろうな。

 レンズ一覧で「オリンピア・ゾナー」の表記がゾナー180/2.8だけでなくゾナー135/2.8、ゾナー250/4にもついているのが驚きであった。時々カメラ屋の中古品にオリンピア・ゾナーと表記されていたのはこのせいだったのである。
 この名称はこの後コンタックスRTSの初期のカタログでゾナー180/2.8に関して少し見られるだけである。いずれにせよレンズ一覧以外の場所で見たことはない。

 ホロゴンウルトラワイドも載っている。

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2011年4月25日 (月)

オリンパス M−1カタログ

 最近バイク関連の知人から「私の知る範囲では他に関心を持ちそうな知人もいないので」と大量のカタログを頂いた。
 どうでもいいことだが、カタログの裏には販売店の案内を印字する欄がある。この方の場合は大阪、京都、神戸のカメラ店が多いのでその方面にいらっしゃったのだろう。△11の場合はシンセサイザー関連のカタログが新潟だったりして、その個人の時代を現すものでもあるのだ。

Ccf20110425_00000 これはその中からオリンパスOM−1がOM−1でなくMー1だったカタログ。貴重品である。

 真ん中の黄色い部分は金屏風風。分厚くて力が入っているのはキヤノンFー1カタログに近い。

 △11が写真に首を突っ込んだのは1980年だと思う。だからすでにOM−1は旧型であった。元から嫌いではないデザインだったが、世間でもだんだん電子化が進む中で真面目な機械制御の一眼レフカメラとしてニコンF2、キヤノンFー1などと一緒に再評価が進み、△11の中でも好感を持つ機種となっていった。

 M−1の存在は1995年頃コンピューター通信で知ったのだと思う。改名の経緯については「エルンスト・ライツからクレームを受けて」と書いてあるものも多いが、そういう性質のものだったのだろうか。場所は1972年のフォトキナであったというし、個人的にはライツの1社員が現物を見て「ウチに同じ名前のカメラがあるよ」と言ったくらいのことなんだろうと根拠もなくそう思うのである。オリンパス側も法律上問題がないことを知りつつ改名を決めたわけで、双方が大人だったのではなかろうか。

 面白いのは160/3.5というレンズがシステム図に載っていることである。300/6.3と400/4.5はシステム図だけでなくスペックとともにレンズリストにも載っている。試作だけで発売されなかったのだろう。
 それと、我ながら気持ち悪いのは、さらさらと眺めていて「こんなの知らんぞ」と気がつく程度には、30年前に暗記してしまったリストが記憶に残っていることである。

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2011年3月10日 (木)

日本特殊光学 封筒

Ccf20110309_00000_2  こんなモノをありがたがるのは自分でもどうかと思うが、、、日本特殊光学 スペース10鏡筒(△11の天文台)の水色バージョンに付属していた。

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2010年6月10日 (木)

デジタルカメラマガジン ニコンD1

Scan0418 実機であるニコンD1(△11のカメラバッグ)を購入してからかなり時間が経過してやっと入手した。

 この手の本を入手しておこうと思うのは、現役当時の空気を知りたいと思うからだ。後で作成される書籍は後知恵に汚されて当時の位置づけが分からない。この本についても、発売間もないこのカメラに対する業界の熱い期待が感じられる。

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2009年12月28日 (月)

テレビュー アイピース/アクセサリーカタログ

Scan0327 ナグラーアイピースは衝撃的だった。

 見かけ視界82度。数少ない例外を除いて、アイピースの見かけ視界が40度と決まっていた時の話である。

 異様に高価で、まぁそれはスペックからして納得できるものであったのだが、しかしそれだけに革命的なことだった。
 しかも価格は焦点距離により色々で、長焦点程高価だった。今では「当たり前じゃないか」と言われそうだが、当時は特別短焦点と長焦点のアイピースを除けばシリーズ内では価格が統一されているのが当然だったのである。

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2009年12月23日 (水)

BMW バイクカタログ

Scan0326  1987年版。分厚い良質紙を使っている。

 まだシリーズはRとKのみである。当時はK100RSが欲しかったと思うけど、今ならF800Sが欲しい。このカタログに載っている中から選ぶのならR80か。

 老けたのか、丸くなったのか。両方か。

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2009年12月20日 (日)

ニコン NAV−SWシリーズカタログ

 ニコンが望遠鏡を作っていたのは何年前になるのだろうか。当時はまず8cm屈折赤道儀で、これはアクロマートを称していたが実際には他社のセミアポクロマートくらいの性能はあったという。
 後に10cmED屈折赤道儀が出てこれは優秀な屈折鏡筒ということで今も有名である。
 並行して接眼鏡のOシリーズも高性能で有名であった。ただ見かけ視界は当時としてはオーソドックスだった約40度なので、現在では狭視界である。
 ペンタックスが天文写真に特化したラインナップでシェアを伸ばすに従って影が薄くなった印象がある。△11は天文界から離れ、復帰した時その姿は消えていた。

 その後望遠鏡の業務はニコン本体からニコンビジョンに移管されたが、実際には長年スポッティングスコープと双眼鏡のみであった。

Scan0325 それが、久しぶりにアイピースを製造するという。天文業界への復帰である。左はそのNAV−SWシリーズのカタログ。
 取り付けサイズはφ31.7mm。この選択は当然であろう。
 見かけ視界は72度。昔ナグラーの82度に憧れたものだが、見渡さなければ見えないというし、周辺は相当乱れるというから、このくらいが大人の選択なのかも知れない。
 発売焦点距離は5mm、7mm、10mm、14mm、17.5mmの5本。
 価格は1本約¥34k。「高価だ」と批判する人もいるだろうが、個人的には安価だと思う。そもそも高級アイピースが1本¥12kだったのは30年も前の話で、しかも4枚構成であった。これは6群8枚構成が原則だ。8枚構成と言えば一眼レフカメラ用のちょっとしたワイドレンズがそのくらいである。
 ハイアイレリーフ。眼鏡を掛けているのでありがたい。
 コンバーターがあるのも良い。1.6倍で、同時に像面湾曲や非点収差も補正する。2群2枚、¥21k。

 鏡筒やシステム赤道儀にも少しは期待してしまうが、どうなのであろうか。個人的にはあまり強く期待はしない。

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2009年12月 6日 (日)

ビクセン 総合カタログ

 △11が天文に興味を持った当時、本格的なシステム赤道儀を作っているメーカーは3つあった。五藤光学、高橋製作所、そしてビクセンである。
 この中で曲がりなりにも近い将来現実に所有できそうに思えたのはビクセンだけだった。

 無論安価であるだけに高級感やステータスでは劣っていたが、利点も多かった。
 システム図は五藤光学のマークXより広く、セレストロンと提携していたので20cmまで搭載できた。当時は魅力を感じなかったけれど、カスタム経緯台も一環したシステムだった。
 またシステム構成が高橋製作所よりずっと分かりやすかった。

 個人的には三角板に三角のプラケースを載せているのが気に入っていた。アイピースを落下させる危険性が低くなるし、蓋をすれば密閉されそのまま運搬できる。何しろ小さくても高価なパーツもあって、ケースと三角板との間での往復が結構面倒で気を使うのである。
 三角ケースは作るのが面倒だったのか、しばらくして丸ケースに変更されてしまった。まぁ丸ケースでも利点は同じだし、一般的で製造しやすいのだろうが、容量が小さくなると思う。

 ニュートン式短焦点反射の接眼部ラックピニオンが横送りになっているのも偉い。
 設計してみると分かるが、一般的な前後送りでピント位置をあまり内側にするとドローチューブが光路に割り込んでしまう。かと言ってピント位置を外側に繰り出すには斜鏡を大型化する必要があり、どっちにせよ遮蔽になる。このバランスを取るのはかなり面倒なことなのだが、横送りならそもそも原理的に問題自体が発生しない。ただ斜鏡を移動させることになるので光軸を保ちつつ移動させるだけの精度が要求されるのではないかとは思う。

Scan0323_2 最初に見た広告に載っていたのはニューポラリスだったような気がするが、確証はない。左は1986〜1987年版のカタログで、製品はスーパーポラリスになっている。大きな改良点は赤緯軸を赤経軸と分解できるようにしたことだ。これでポータブル赤道儀として使う際不要で重い赤緯軸を担ぐ必要がなくなったわけである。

 天体の名前や位置を入力すれば導入できるスカイセンサーを出したのも他のメーカーに対する利点になった。

 しかし色は無機的な黒だったニューポラリスの方が好きだ。

Scan0324 こっちのカタログは年号や、年号を推定できる数字がどこにも入っていないのは不思議なことだ。
 ただ赤道儀がGPになってGPEやGPDも発売されており、双眼鏡はアスコットやウルティマ、スポッティングスコープはジオマになっているからかなり時代が下っているはずだ。

 裏表紙は約80万円で購入できる2.0m小型ドーム。
 この手のものは「天文台」という感じがして昔は憧れたものだが、今になってみると小規模ドームはままごとみたいで格好悪いと感じる。この10年くらい「小規模な観望所だったらスライディングルーフ式の方が効率が良い」と吹き込まれて来たせいかも知れない。

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