愛知万博、その夢の跡
今「万博の会場」と言われて皆がまず連想するのは長久手会場=青少年公園跡地でありましょう。△11も万博の会場に行ったのは一度だけ、やはり事実上本会場となっている長久手会場での巡回に終始し、瀬戸会場=海上の森には全然足を踏み入れておりません。
周知の通り当初万博会場に予定されていたのは瀬戸会場だけでした。外野だったのであまりちゃんとは見ておりませんが「反対派に配慮し可能な範囲で海上の森を温存しようとした結果、会場面積が不足し長久手会場が設定された」と認識しています。
万博反対派の方達も森林浴の場とか自然保護の認識が第一でそれ以外の認識は薄かったようでしたが、実はあの森は、あの森を源流の一つとする矢田川、ひいては庄内川流域にとって重大な意味があります。
さて、一見話が変わりますが、、、日本では水と安全はタダだと思われている、という議論がありました。とんでもない話です。
これから書く話は海上の森を源流の一つとする矢田川とその流域「尾張国山田郡」についてですが、多分どこでも似たような事態は起こっていたと思います。
矢田川は昔から流域を潤しては来ましたが、河床が低くかつ平時の流量が少ないため場合によって農業用水の取水口を自村より上流に遠く離れた場所に設けざるを得ませんでした。例えば宮崎用水は稲葉橋のすぐ下流に取水し稲葉村、印場村、大森村が使っています。使用料として毎年上流の村に米を送っていましたし、旱魃の年には水争いが起こりました。この地域の農業用水問題が解決したのは実に1959(昭和34)年愛知用水開通によってだそうです。
余談になりますが、通常は川があれば水運が発達するところ、名古屋と瀬戸を結ぶ瀬戸街道が発達し、後には瀬戸街道と並走するように瀬戸電(現名鉄瀬戸線)が出来たのは矢田川の水量が少なかったためです。現在瀬戸線は通勤&通学電車となり名古屋の中心である栄町に乗り入れていますが、昔瀬戸電の終点が堀川だったのは陶磁器輸出の便を鑑みてのことと推測されます。
区画整理後この地域の田圃のほとんどは住宅地になってしまいましたが、区画整理までは約109mの大きさに区画されており、これは小幡の「大坪」「壹之坪」印場の「塚坪」等流域の地名に散在する坪の文字とともに646(大化2)年区分田に関する詔勅で定められた条里制の遺構です。条里制についてもっと知りたい方は条里制の花がよくまとまったページだと思います。
矢田川に近い場所では、新しい規格の田圃が多くなります。川に近い場所は田圃が作りにくく後になって開発された、、、わけがないですよね。川に近い方が水を運ぶ距離が短いので作りやすいハズです。よく見ると、低湿地とか合流地点周辺等洪水の出やすい場所に新しい規格の田圃が集中していることが分かるそうです。すなわち、そこにも昔から田圃はあったのだが洪水で埋まってしまい、新たな時代の規格で作り直されているわけです。
江戸時代になり初代尾張藩主徳川義直が瀬戸で窯業を保護しました。これが「セトモノ」が陶磁器の代名詞になっていく基盤になって行くわけですが、窯業は薪で土を焼くわけで、瀬戸近隣の山は禿げ山になってしまい、下流では洪水が頻発するようになりました。例えば昔矢田川はナゴヤドームのすぐ北、長母寺の南側を流れていましたが1767(明和4)年の決壊により流路が長母寺北側に変わってしまっています。洪水だけが理由ではないようですが、元郷(大森橋北詰)にあった大森村の集落は徐々に瀬戸街道沿いに移転し、残っていた八剱神社も1927(昭和2)年に現在地に遷座しました。
この反省から、人々は山に樹を植えました。ガス釜や電気釜の普及もあって植樹の努力がやっと形になりつつある、この成果の一つが今の海上の森なのです。今では水は出なくなっていますし、2000(平成12)年09月の東海豪雨でも流域に被害はありませんでした。
しかし、樹を植えて出なくなった水は、樹を切れば必ずまた出ます。流域の田圃がなくなっただけ、江戸時代より多く出るかも知れません。江戸時代に水が来た地域に住んでいる人たちは次の「東海豪雨」では家屋浸水を覚悟するか、万博終了後海上の森を視察して自分なりに判断した方が良いと思いますよ。
矢田川は下流で庄内川に合流しますが、東海豪雨の反省で対策されたとはいえ次の「東海豪雨」では下流での被害も大きくなる可能性があります。
次の「東海豪雨」の際、矢田川の動向を注視しましょう。それまで万博の本当の「決算」は終わりません。
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