バブルを経験した人は、あの狂乱の株価と地価を覚えておられると思う。とにかく手当り次第に株か土地を買っていれば儲かった時代だった、、、というのは実際には経験していないが、新聞の株式欄を見てシミュレーションした経験と、伝聞である。
バブルが崩壊しふと気がついてみれば凄まじいデフレと不景気が吹き荒れており、その時になって「どうしてあの時右肩上がりに上がり続けると思い込んだんだろう、そんなことあり得ないのに」と言ってみても、右肩上がりが続いている時には未来永劫右肩上がりが続くように思えるものなんである。
それはそうと、今高値でわいわいやってる原油やプラチナにせよいつまでもあんな価格ではなかろう。
しかし、よく考えてみればバブル崩壊後のあのデフレの中で何でも値下がりしたわけではない。その一つがブランド物である。
いや、この言い方も正確ではない。ほとんどのブランドの価値は暴落したから、ブランド物の価値は平均すれば物凄く下がったわけだ。
例えばハンティング・ワールド。△11は巷の女の子のほとんどが持っていた時代から「単なるビニールバッグに高いお金出して、、、」と思っていたがその通りの評価になった。今そこらへんにハンティング・ワールドのバッグを欲しがるお姉さんは見掛けない。
例えばエベル。一時はロレックスと同等のステータスを持ちつつあると言われるところまで行ったが、当主が折角儲かった利益を投資という名のギャンブルで溶かしてしまったらしい。
例えばマーク・レヴィンソン。オーディオ業界ごと溶けちゃいましたねぇ。
それでも全く価格を下げなかったブランドがいくつかある。
例えばロレックス。そう高級ではない。しかし普通人からすれば充分に高級だろう、、、と言うより、単に「自社機械を積んだ時計はあのくらいの価格になってしまう」というだけの話、逆にクォーツ式で作る以上はロレックス程高価にはしようがないので、これはロレックスがどうかというよりも「機械式時計はクォーツ式時計より製造コストが掛かる」というだけの話なのだが、、、ロレックスも一時クォーツを生産したが、オメガやロンジンのようにどっぷり浸からなかったことが結果としてブランド価値を安売りしないことになった。ほとんどのメーカーが入れたETAの機械も入れなかった。アフターサービスも手抜きしなかった。その結果「こつこつ自社機械を作って来た」「クォーツは部品がなくなれば修理できないが機械時計なら修理できる、ましてアフターサービスが充実しているロレックスなら一生ものだ」という今の評価に繋がっているわけである。
例えばルイ・ヴィトン。これもそう高級ではない。しかし普通人からすれば充分に高級だろう。良質な革を使い真面目な縫製で作っているから相当長期間使えそうだ。
そのロレックスとルイ・ヴィトンは真面目に作ってあるからこれからもいつまでも高値で取引され続けるのか。答えは「否」だと思う。
何故か、と言えば今使っている連中が本当にそれを欲しくて買っているのではなく、単に「ステータス」としてのみ買っているからだ。ステータスは周囲から羨ましがられなかったら意味がなくなる。
ステータスとして買うこと自体を軽蔑しているわけではない。ステータスだけで買っている人間ばかりの時、ステータスがなくなれば価格が崩壊すると言っているのだ。
1993年当時、ハンティング・ワールドを使っている女の子に「単なるビニールバッグに高いお金出して、、、」と言ってみたとしよう。多分その女の子は怒ってこう答える。「私の趣味なんだからどうでも良いでしょう」本当は趣味なんかではない。それが趣味としたら、その女の子の趣味は「周囲から羨望の眼差しでバッグを見つめられること」である。だからハンティング・ワールドを欲しがる人が減った途端、誰もハンティング・ワールドを欲しがらなくなった。つまりここにあった市場原理は実用価値でなくステータスのみだったわけだ。
無論その頃からルイ・ヴィトンのバッグにもステータスの側面はあった。しかしルイ・ヴィトンの中古相場が崩壊しなかったのは、材質も縫製もその価格なりに良くて実用価値も持っていたからだし、それが今日までそのステータスと中古相場を保った理由だと思う。ステータスのために買う物でも、実用価値を伴わない作り方の物は長続きしない。
しかしそれからもう15年になる。その間ルイ・ヴィトンの工場はバックを大量生産し続け、それを女の子たちは争って買い求め、飽きるとその一部はリサイクルショップに売りに出され、そして新品当時よりは安価にしかしある程度の価格を保ったままお金のない女の子が買って行った。今その循環が止まりつつあるのか、リサイクルショップにはルイ・ヴィトンのバッグが溢れている。
バブルが消えた時皆がふと冷静になったようにふと皆が冷静になり、今皆がルイ・ヴィトンに感じているステータスが消えた時、値段を下げても中古品が売れなくなる。その時残っているのは現在の相場を到底支えるには足りない実用価値だけだ。
この時よく分かっていなければならないのは、ステータスで買う時というのは、実用価値で買う時よりずっと供給過剰に鈍感だということだ。維持費さえ掛からないなら、皆に威張れるものはたくさんあればあっただけ良い。逆に言えば、市場の原理がステータスから実用価値に移行する時には、ステータスという市場原理に隠されていた供給過剰が露呈する。
さて、そんなアタリマエのことより、個人的な興味はその後何が来るか、なのだ。△11が思うには「人間の気持ち」という原点に帰って行くように思う。
例えば自分が作ったもの。
皆さんは、何か自分で作った時にどう感じただろうか。「物を作るというのは大変なことだなぁ、それでこれだけ稚拙にしかできないんだから、職人さんは本当に偉いなぁ」という気持ちとともにその稚拙な作品に特別な感情を抱かないだろうか。
例えば大事にして来たもの。
以前行った時計のオフ会に、祖父が大切に使っていたポケットウォッチを持って来ていた人がいた。平凡なヘルブロスか何かで、機構的にも何も特別なことはなかった。しかし、とても考えさせられたのは、「わしら機械時計は一生ものとかほざいて来たけど、一番実践しているのはこの人じゃなかろうか」ということだった。そしてそのオフに参加した人の中で、一番「豊か」だったのはその人じゃなかろうかと思うのだ。
ルイ・ヴィトンのバッグだって、母親が一生の記念に一つだけ買って大切に使って来た物を娘に手渡すならどれだけ重みが違うだろうか。「同じ物」が市場に売っていても、それは似て非なる物である。本当は、まさにそういうことのためにルイ・ヴィトンは良質な革を使い真面目な縫製でバッグを作っているのだ。
お金で買えるものは、お金を出せば買えてしまう。本当に大切な事柄は、それと全く無関係ではなくても、それと別のところにあると思う。
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