この時代のカメラで一番インパクトがあったのはニコンFAであった。日本光学は1/4000&X200のニコン FM2(△11のカメラバッグ)やオート1/4000&X250のニコン FE2(△11のカメラバッグ)で基礎的技術力の高さは証明していたが、当時マルチモード一眼レフはすでにキヤノンAー1やペンタックススーパーAが出ており、何でもできるのがカッコ良かった時代、やはり素人から見たら日本光学ファンは肩身が狭かったのである。
実際に出た「日本光学初のマルチモード一眼レフ」、あんなに格好良いカメラはなかった。ニコン モータードライブMDー12(△11のカメラバッグ)も使用できたが、専用&一体デザインのMDー15がデザイン的にはやはり素晴らしかった。
単純なマルチモードに終わらず、マルチパターン測光はこの機種に始まり今に至るまで当たり前になる革命的な機能であった。
モータードライブを内蔵したコニカFTー1モーターも電子化が進む時代の過渡的な存在として印象的であった。個人的には望遠鏡の世界でモータードライブを内蔵したタカハシ EMー1赤道儀架台(△11の天文台)とイメージが重なっている。ちなみに名古屋の望遠鏡屋さん「オリオン館」で月や惑星の撮影用にとコニカFTー1モータープロハーフという特殊機種を扱っていたのも望遠鏡業界とイメージが重なる原因かも知れない。惑星は強拡大してもフィルムの上には小さくしか写らないのでフィルムサイズは小さくても充分、それより撮影枚数が欲しいのですな。ちなみにモータードライブ内蔵ではコニカFSー1の方が時代的には前だが、デザイン的にはずっとFT−1の方が良いと思う。
モーター内蔵と言えばコンタックス137MAも忘れられない。コニカはマイナーであったからボディーを買うのは良いとしてレンズに困りかねないが、ヤシコンならメジャーなマウントである。ま、揃えるならレンズが高価で有名だったヤシコンの方が困ったかも知れないが、、、。ポルシェデザインそのものではないらしいものの、ポルシェデザインのコンタックスRTSと共通の雰囲気を持つのも良かった。
何だかよく分からないまま凄かったのがライカR4。当時誰も話題にしなかったが、新鋭一眼レフたる資格、マルチモードを備えていた。値段を見てまた絶句だったが、、、レンズが高価で有名だったヤシコンも比較にならない高価さ(^_^;!
よく分からないってことで言えばさらに上を行っていたのがローライフレックス2000F。「何だこりゃ、でも凄い」。フィルムを途中で交換できるのはライカ判の一眼レフでは唯一だったし、モーター内蔵。ウェストレベルとアイレベルを簡単に切替できるのも凄い。交換レンズはむちゃくちゃに高いツァイスと、まぁまぁ手頃なローライナーの2ライン。でも誰も使ってないので実際どうなのか全く不明なのと、ローライナーのデザインがトキナー臭かった(^_^;
チノンも現物を見たことないという意味ではよくわからなかった。一体どこで売っていたか、しかもその後も見たことがない。その割にはカメラ総合カタログには4機種を掲載、インターバルタイマー内蔵ワインダー、ワイヤレスコントローラー、インフォバックと妖しい特殊装備品が一杯安価にラインナップされていた。インターバルタイマーなんて「究極超人あ〜る」でも誰も持っていない高価なオプションの代表扱い、ニコンMTー2ならモーター別¥90kのところチノンならインターバルタイマー内臓ワインダーが¥25k。
この時代までは「高級機」「中級機」「普及機」の区分がかなりはっきりしていた。ある時代の日本光学で言えば高級機はニコンF3、中級機はニコンFA、ニコンFE2(△11のカメラバッグ)、ニコンFM2(△11のカメラバッグ)、普及機はニコンFG、ニコン FG20、ニコンEMとなる。各クラスのだいたいの特徴は、高級機「機能はそう多くなく、評価が定まらない新機能もあまり入らない」「ファインダー交換可能」「交換スクリーン多種」「モータードライブは秒速5駒程度」「長巻フィルムバックを使える」、中級機「機能は多め、新機能もテスト的に導入される」「交換スクリーン数種」「モータードライブは秒速3駒程度」、普及機「機能はそう多くない」「モータードライブは秒速2駒程度」。
これに真っ向から逆らっていたのがペンタックスMXであった。ボディーのみ¥48kと普及機のお値段ながらオプションに秒速5駒のモータードライブ、長巻フィルムバックがあるのは上級機ペンタックスLX並み。ファインダーは交換できないもののスクリーンの種類も上級機と同等。ちゃらちゃらと新技術を導入せずメカニカルシャッター1本槍の姿勢は額の古いAOCoロゴと相俟って古剣豪の趣を醸していた。地味だけど簡単装填のマジックスプールも真面目に考えてあるなぁと好感を持った要因だ。
我ら貧乏人が買える可能性があるとすれば普及機、しかしマニュアル露出は絶対条件となると、安心感の日本光学はフィルムカウンター側の斜めカットがキュートなニコン FGー20、ちょっとプラスチックの質がバタ臭いキヤノンAEー1プログラム、一生テッサー45/2.8一本で終わりそうな予感のコンタックス139、そしてマニュアルアダプターという隠れキャラ的オプションを持つオリンパスOM10が選択肢に挙がる。
カメラ仲間とこの時代のカメラの話をするとなると遅かれ早かれ必ず話題になるのが「宮崎美子のミノルタXー7」vs「大場久美子のオリンパスOM10」のCM合戦なのだが、如何せんウチは一日にNHKを1時間しか見ちゃダメという厳しい家庭環境で育ったので、このCMも回顧番組でしか見ていない。
それより、カタログを四六時中眺めていた。雑誌なんか買わなくても、ただでもらえるカタログで一通りの技術情報は入手できる。おかげで当時は国産一眼レフならどんなカメラでも、絞込ボタンやアイピースシャッターといった普通の人には無縁の機能でも即座に操作できた。そのカタログで気に入っていたのはまずニューヨークのニコン FGカタログ、イタリアのオリンパス OM10カタログのような旅行もの。そしてレンズを真横から写してあり精密感の溢れるAi−S時代のニコン ニッコールレンズカタログ。
世間的にはミノルタαー7000を抜きにこの時代は語れないだろう。それまでにオートフォーカス一眼レフはペンタックスMEーF(35〜70/2.8)、ニコンF3AF(AiAF80/2.8S、AiAFED200/3.5S)、オリンパスOMー30(35〜70/4)があったが、いずれもオートフォーカスで使用できるレンズが1〜2本と非常に限られていた。マウントが変更されレンズを買い直さなければならないとは言え、あらゆる焦点距離でオートフォーカスが使用できるのは革命的だったと思う。いわゆるαショック、一時「αにあらずんば一眼レフに非ず」という雰囲気にすらなった。
キヤノンTー90は、当時は全く興味がなかったものの、ずっと後になり色々な人の話を聞くうちにだんだん気になって来た機種である。αショックの後でマニュアルフォーカスってのも何だかと思ったが、オートフォーカス機発売までの完全なつなぎだったニコンFー301と違い、大きな意味があった。電子化以前の操作系に固執するニコン、プッシュボタンの操作系に切り替え「使いたい奴は慣れろや」と言わんばかりのミノルタに対し、人間の性質に合った新しい操作系を模索する姿勢が新鮮、この操作系は本格的オートフォーカス一眼レフEOS650に花開き、今に続く広く長い道の起点となった。EOSが主力となってもFDマウントでしか出ていないレンズを便利に使うためカメラマンが中古品を買い支え、しばらく高値安定していた。
簡単にフィルム装填ができるというセールストークのパターソン現像タンクにも興味津々であった。今はどうか知らないが、当時はまだ高校の写真部でも白黒現像が当然の技術だった時代である。
この時代の写真業界の雰囲気を少しでも味わえる漫画として、新谷かおるシリーズ1/1000秒とゆうきまさみ究極超人あ〜る第7巻を挙げておく。
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